青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

若者は右傾化しているのか②

右傾化について~前回書いたこ

 今回も、前回に引き続き若者の政治・社会に対する態度や立場について書いてみたいと思います。まず前回書いたことを簡単にまとめます。

 まず、最も言いたいことは、自民党を支持する若者は増えているけれど、それは若者が「右翼化」しているからではない、ということです。若者の自民党支持の増加は、「右翼化」しているからではなく、「保守化」しているがゆえの変化だ、というのが多くの社会学者が共有されていることです。ではなぜ、若者は現状維持を望むのか、すなわち「保守化」しているのか。それは、今の若者が希望をもっていないからだ、と書きました。「こんなもんだよね」という悟りがあるのだから、現状を変えることにエネルギーを割こうとはしないのです。さらに踏み込んで、その風潮の背景にあるのは何か、ということも述べました。「先進国」としてのナショナリズムと、「ネット・スマホ」における個人の自由の享受が、大きな役割を果たしているだろう、ということです。

 

ネトウヨはなぜ「右翼」なのか

 今日考えたいのは、若者が「右翼化」している側面もあるということです。「ネトウヨ」と呼ばれる存在がネット空間に登場して久しいですが、なぜ「ネトウヨ」が生まれるに至ったのか、ということを考えてみたいと思います。

 結論から述べると、「ネットメディア」の特質がその理由です。90年代後半から登場してきたネットにおけるメディアですが、近年その存在価値はさらに高まってきているような気さえあります。

 ネットメディアの存在価値は「アンチ・新聞テレビ」であることです。「テレビでは言えない……」「大手新聞が報じない……」みたいなネット記事を読んだことある方は多いのではないでしょうか。アンチ大手メディアとして「本音が言える」「本音がわかる」ネットメディアは重宝されているのです。

極端な新聞やテレビ?

 新しいメディア・ネット空間vs従来のメディア・新聞やテレビという構図を確認したところで、従来のメディアである新聞やテレビについて考えてみましょう。

 新聞・テレビについては「偏向報道」が去年から指摘されています。左派メディアに対するバッシングが、ネット空間を中心に巻き起こっています。これも言わば当然のことといえるでしょう。一方では、首相の「読売新聞を…」という国会答弁をきっかけに、読売新聞をバッシングする向きもネット上には存在しています。 

 新聞やテレビは果たして「偏向」「極端」なのでしょうか。面白いのはNHKに対するネット世論です。ツイッターではNHKに対して「左翼メディア」「御用メディア(政権より)」という両者のレッテルが張られています。ネット世論におけるレッテル張りの際、客観的事実に基づく必要はありませんから、それだけいい加減に、自分に都合の良いように、語られているだけなのかもしれません。

 そう考えてみると、「偏向」というのも、従来のメディアのアンチテーゼとしてネットメディアが語っているだけなのかもしれません。あくまで、第4の権力とも呼ばれるマスメディアが、「権力の監視」として、政府に批判的な報道をしていた、それに対して「反・旧メディア」として「右翼的」なネットメディアが存在している、ということです。 

 それは「2ちゃんねる」に代表されるいわゆる「ネトウヨ」世界にはとどまりませんでした。先ほどから少しずつ述べている通り、ツイッターにおいてもその現象は顕著です。「反・旧メディア」の立場から記されたツイートが多くの人に共有されているのをしばしば見ます。

 若者の「右翼化」はメインストリームではないけれど、「反・旧メディア」的立場として「ネトウヨ」が登場したということです。そして、自由なネット空間では、その意見が先鋭化してむしろネット空間の方がより「極端」な場になっている。

 そういう現状だからこそ、ネット世界に浸っている若者は「右翼化」したとみられているのかもしれません。

 前回からの繰り返しですが、多くの若者は「保守化」しているのであって、「右翼化」しているのではありません。しかし「右翼化」と見られるのは、「若者=ネット=ネトウヨ」という、ネットメディアの性質に起因する若者の捉え方が背景にあるからだと言えるでしょう。

若者は右傾化しているのか①

 

一週間後に選挙を控えて

 

 投開票日を一週間後に控え、総選挙の議席予測が盛んに発表されています。大手新聞各紙によると、「自民党単独過半数」、「自民・公明あわせて300議席前後」ということで、政権交代はまず起こりそうにありません。一方の野党はというと、希望の党が大失速で50~70議席前後にとどまるという予測に対し、立憲民主党は公示前の3倍近くとなる45議席ほどが見込まれているようです。

 本来であれば、そうした選挙予測等を行いながら、今後の国内政治情勢について述べるべきなのかもしれませんが、今日は少し違ったテーマを取り上げたいと思います。

若者は「右傾化」している?

 

 

 「若者は右傾化しているのか」ということです。10月12日の朝日新聞デジタルには「自民支持根強い若年層」という記事がありました。考えてみれば、「ネトウヨ」の存在をはじめとして、「若者の右傾化」はここ数年確かに様々な場所で話題となっています。それを裏付けるようなデータが、今回の選挙で示されているとみることもできるでしょう。

 

 しかし、「自民党支持=右傾化」なのでしょうか。若年層はみんな「ネトウヨ」なのでしょうか。私自身は、20代の一学生として、「若者の右傾化」には違和感を抱きます。ですから、若者の「右傾化」について、思うところを書いてみたいと思います。

 

 結論から言うと、第一義的に、若者は「保守化」しているということです。ここでは、「保守化」と「右傾化」「右翼化」とは違う意味だと捉えていただきたいと思います。「保守化」と「右傾化」について、私自身の整理を書いておきましょう。

 政治の世界では「保守」というと「家族を大事に」といった共同体主義や、あるいは「靖国参拝」という復古主義とか、そういうイメージで語られがちです。しかし私は「保守」というものをもっと素朴な意味で使いたいと思います。「いまの現状、現代社会の良さを維持する・守る」という意味です。

 それに対して、「右傾化」は排外主義や復古主義に走ることを意味します。「ネトウヨ」の言説はこちらに含まれます。

 

 今の若者は「保守化」している。それが第一義的な回答です。どういうことかというと、「明日、あるいは10年後、社会がよくなるとは思っていない」ということです。そこに「変革」「革命」のエネルギーはありません。そこにあるのは「現状維持」のエネルギーであって、「アメリカンドリーム」「下剋上」の空気ではないのです。

 

 理由の一つには「先進国」としてのナショナリズムがあるでしょう。多くの教科書には戦後の復興や経済成長が記載されていますし、マスメディアも先進国としての日本を声高らかに報道します。「中国では、」「アフリカでは、」中進国や後進国(とカテゴライズされる国)の映像を見て、「そういう国なんですね」というコメントをしている評論家のなんと多いこと。そうした社会で育った日本の若者には「先進国」としての意識がしみついています。

 他には、技術的な成熟も考慮しておく必要があるでしょう。スマートフォンをもっていれば、一人でいろいろなことができます。スーパーや本屋といった共有スペースにわざわざ出向く必要はなくなり、あらゆることがAmazonとのやりとりで済むようになりました。急な用事があれば、最寄りのコンビニへ。技術こそが、自分たちの生活をより良いものにしてくれているという明確な自覚があります。

 

 そうした社会は、「不可解なデータ」(大澤真幸『可能なる革命』2016年、太田出版)を生み出します。そのデータが示すのは、若者の約8割が今の生活に「満足している」と回答しているという事実です。

 社会の現状を見てみれば、格差も拡大し、非正規雇用の割合が増加し続けています。少子高齢化には歯止めがかからず、国の借金も減る気配すら見えません。そういう現状にも関わらず「満足している」と答える若者が多いのです。「満足している」なら現状を変える必要はありません。このデータこそが若者の「保守化」を端的に示しています。ではなぜ、若者は「満足している」のでしょうか。

 

 それは、逆説的ではありますが、今後の日本社会に希望を見出せないからです。希望を見出せないからこそ、すなわち絶望しているからこそ、現状に「満足」し、これ以上悪化しないように保守化しているのです。

 高橋優の歌ではありませんが、「明日はきっといい日になる」と本気で思えたなら、それは「改革」「維新」を起こすエネルギーになるはずです。「もっと良くなるはずなのに良くない」というもどかしさ、われわれはそれを不満と呼びます。不満があれば、「改革」の手段として野党に投票するでしょう。

 しかし、今の若者にはその希望がありません。「先進国」意識のしみついた日本に、そのうち中国やシンガポールに追い越されていくであろう日本に、この10年でどんな「改革」を望むというのでしょうか。明日を変えるのは技術であるという確信のもとで、政治に何を求めるというのでしょうか。今の「なんとなく平和」な生活が送れればそれで良いのです。スマートフォンを禁止にされないかぎり、「ガチャ」を禁止にされないかぎり、若者が、与党の打倒にエネルギーを割くことはないでしょう。「これ以上良くなりようがないから、良い社会じゃないけど受け入れよう」という『さとり』の感情がそこにはあります。

 つまり「明日はきっといい日にならない」という確信が、若者の自民党支持の背後にはあるのです。その意味では「希望」を提示することこそが野党の意味であり、「希望の党」の立ち上げはその点において正しかったと私は考えています。その「希望」が、本当の「希望」として若年層に受け入れられていくのでしょうか。それこそが、これからの政治の一つの注目点だと考えています。

 

 今回の議論は、大澤真幸『可能なる革命』や古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を参考に書いています。このような「若者論」を、社会学の観点からデータも踏まえて読んでみたいという方は、ぜひそちらの2冊を読んでいただきたいと思います。次回は、今回あまり触れなかった「右傾化」「右翼化」について補足的に述べたいと思います。「右傾化」「右翼化」しているわけではないのなら、「ネトウヨ」の存在をどうやって説明するか、とお思いの方もいるでしょう。ネットメディアの席巻と若者の右傾化について考えます。

加計学園問題の終着点はどこか

紛糾する加計学園

 金曜日、加計学園問題に関する「内部文書」について、再調査が行われることとなりました。天皇生前退位に関する特例法案とあわせて、金曜日の2大ニュースだったように感じます。

 この加計学園問題については、獣医学部の設置が適切な手続きのもとで進められたか、官邸、内閣官房などから文科省に圧力が働いたのか、という点が論点になってきました。与野党が激しい舌戦を繰り広げています。

 文科省で出回ったとされる文書については、幾分か注意してみていかねばならないと思っています。まず、文書が実際に存在したのかということです。これについては、存在したのは間違いないといって問題ないでしょう。次に、その文書に記されている「総理の意向」というものに注目すべきです。どのようなプロセスで、どのような「意向」が文科省に伝わったのかということです。「規制緩和推し進めろ!」という意向ならば、何ら問題はありません。「『友達の』加計くんのところよろしくね」だったら大きな問題となります(総理は一切の関与を否定していますが)。実際に総理本人から直接言われたのか、あるいは総理周辺から指示が飛んできたのか、はたまた文科省自身が「忖度」したのか。事実関係はきっちりと明らかにされるべきであり、それを拒み続けたのは政権にとってもプラスに働くことはあり得ないでしょう。

 

終着点を意識した議論を

 しかしながら、この問題につい貴重な国会の時間が割かれるのは、一国民として望ましいとは考えていません。終着点を意識した議論をしてほしいというのが、正直なところです。民法債権法分野の大幅改正、刑法(共謀罪や性犯罪の厳罰化)に関する改正、天皇制に関する議論、憲法に関する議論など、より高次元の論点についての議論はもっと行われるべきでしたし、これからも行われるべきです。

 では、加計学園問題がこのまま終わってよいのかと言うと、そんなはずはありません。どこを終着点にすべきなのでしょうか。

 終着点は存在しない、と言うのが私の感覚です。

 それはこの問題が、誰にも責任転嫁しにくい、官僚機構の構造上の問題であり、「逮捕」や「辞任」、「解職」で型のつく問題ではないからです。

 総理が仮に口利きをしていたのだとしても、加計氏からその見返りに何かを受け取っていなければ、罪には当たりません。そして、口利きと規制緩和号令の区別が明確に区別しにくい以上、それは「政策の良し悪し」の問題になるということです。

 とすれば、その政策評価の観点から、実際に獣医学部が必要だったのか、需要と供給の面から、経済学的に分析が加えられるべきです。そうした議論や報道には残念ながら全く出会っていないのですが。

 そうした評価を行えば、総理の関与の有無、その形態に関わらず、自ずと内閣支持率はあるべき方向に動いていくはずです。ある意味ではそれがこの問題の終着点なのであり、ある意味では明確な終着点は存在しないということなのです。

 

 

女性宮家の議論をどう進めるべきか

女性宮家の議論

 眞子さまご婚約の報を受け、天皇制の今後について記事を更新しました。多くのメディアも、眞子さまの結婚を祝いつつ「天皇制」のあるべき姿について識者の意見を報じています。私の拙記事自体は、女性宮家女系天皇を認める流れがやや弱くなり、旧宮家皇籍復帰が現実味を帯びてくるだろう、というものでした。

 国会では、「女性宮家の創設を急ぐべきだ」「早期に結論を出すべきだ」という意見が野党・民進党を中心に強くなりつつあるのも事実です。一方で「眞子さまのご婚約を政治利用すべきでない」という女性宮家反対論者の声も報じられています。自民党幹部から慎重論が沸きあがっているほか、八木秀次氏に至っては「旧宮家皇籍復帰しか選択はない」という趣旨でインタビューを受けています。自民党幹部の間でも意見が割れており、この問題が棚上げにされてきた所以を感じているところです。

 今回は、そうした意見対立に対しての、私の見方を簡単に書いてみたいと思います。

「ご成婚する前に」はダメ

 まず、私が懸念しているのは(可能性は限りなく低いですが)「眞子さまを皇室にとどめる」という展開です。今上天皇生前退位特例法案の付帯決議について、民進党の安住代表代行などが「早急に」女性宮家創設の決議を盛り込むべきという主張をしています。安住代表の「早急に」は決議に関してのことであり、「眞子さまを皇室に」という意図はないと思います。氏のメッセージには基本的に賛成です。しかしながら、急いだあまり「眞子さまが結婚後も皇室に残る」という展開は避けなければならないと思っています。

 眞子さまのご成婚までは一年以上あるとみられていますから、それまでのタイミングで女性宮家が創設されることは、可能性としてはあり得ます。しかしながら、ご婚約内定の報が世間に出てしまった以上、それは後出しじゃんけんに他ならないと思うのです。眞子さまの意思としても、女性宮家創設が決まる前に婚約をして、そのあとで女性宮家が創設され皇籍身分のままになるのは、複雑な心情でしょう。

 少なくとも、眞子さまに関しては、現行皇室典範12条にしたがって皇室離脱がなされるべきだと思っています。もちろん、今後の公務「的」な活動(黒田清子さんも宮中晩さん会などに出席していました)には、必要に応じ、ご本人の意思に基づき参加されれば良いのではないかと思っています。

女性宮家旧宮家

 そのうえで、制度に関する結論はやはり急ぐべきだと思っています。前回の記事でも触れた通り、未婚の皇族女子は、愛子さまを除き、いつ結婚してもおかしくない年齢にあります。この皇族方が次々と結婚ラッシュを迎えるような事態になれば、「旧宮家の皇族復帰」という選択肢しか現実としてありえなくなってしまいます。

 国民の総意に基づく天皇制について、そのような消極的選択は避けるべきでしょう。選択肢があるうちに決めておかなければ、「天皇」を認める人と認めない人がでてきてしまい、天皇制の実質が崩れてしまいます。そのためにも国民の議論の中で、少なくともあと5年後までには結論を出す必要があるでしょう。

女性宮家に親和的な理由

 前回の記事の中で、私は「女性宮家から女系天皇へ」という立場に与する人間であるということを述べました。それは伝統を崩すデメリットがあることも確かです。しかしながら、考えるべきは、『我々は「女系天皇」「旧宮家の皇族復帰」の2択でどちらを選ぶのか』ということです。何かウルトラCがあれば別ですが、実際はこの2択でしょう。

 そうして考えてみると、「男系男子」に合理的な理由があるのか?という疑問と向き合うことになります。もちろん「伝統」とどこまで向き合うのかという哲学的な話ともつながるのですが、私(20代)―――「男女平等」のスローガンが生まれた時からそばにあった―――の感覚としては、「男系」にこだわる正統性がどこにあるのかという思いの方が強いのです。そしてそうした感覚は、40代以下の層に広く浸透しているのではないかと私は感じています。

 こういうことを言うと「伝統の重みを理解せよ」という保守系の大人の方々からのご指導を受けることになるでしょう。「かつては女系天皇がいた」という論理が苦しいのもわかっています。

 とはいえ、憲法1条は「国民の総意」と言っているのです。小さいころから一挙手一投足を報じられてきた現皇室の方々と、制度によって「この人が皇族になりました」という旧宮家の人々。どちらが「総意」としてふさわしいのかということを考えれば、―――私個人の意見というよりも―――前者を選ぶ人の方が多いのではないかと思うからです。

女性宮家論の苦境

 眞子さまのご婚約が、女性宮家慎重論につながっていくのではないか、ということを前回の記事で述べました。現在未婚の女性皇族間で差ができるのは望ましくないだろう、という私の考えからです。一方で、多くの人が容認するのであれば、これからの女性宮家の創設が引き起こす事態に懸念を示す必要はなくなるとも思っています。

 具体的に考えられるのは、眞子さま皇籍離脱したのち、皇室典範が改正され、近い将来佳子さまがご結婚された際も皇族身分のまま皇室に残る、という状況です。この状況をどう見るかという問題です。望ましいか望ましくないかで考えたとき、私自身は望ましくないと考えています。眞子さま、佳子さまにそれぞれ子が誕生したとして、先に結婚した眞子さまの子は皇位継承権を得られない一方で、佳子さまの子は皇位継承権を得られるという事態になるからです。そこを割り切れるかどうかが女性宮家議論の今後の争点になっていくでしょう。割り切れるという世論の方が多ければ、そこに異議を唱える気はありません。

ダブル国民投票も視野に入れるべき

 

 もし、グダグダした国会議論の最中に未婚の女性皇族が全員結婚してしまうようなことになれば、それはこの国の天皇制というものの実質が大きく損なわれかねません。また、制度の行く末が極めてあいまいな状況では、未婚の皇族方も非常に不自由な選択を迫られることになります。眞子さまの意思も、他の皇族の意思も、尊重したうえで、「国民の総意」に基づく結論が急がれます。

 天皇制の行く末について、憲法改正国民投票(首相の目論見通りいけば、ですが)と同時に国民の信を問うてもいいはずです。むしろ私はそうするべきだと思っています。「総意」という重い二文字をいかにして実現させるか、他のアイディアも含めて、国民の側からも議論を起こしていかねばなりません。

 

 

眞子さま婚約が「天皇制」に与える影響

眞子さま婚約というスクープ

 今夜、NHK「ニュース7」が「眞子さま婚約へ」というビッグニュースをトップで伝えました。それに続き、各通信社・新聞社も続々と速報や号外をうっています。今上天皇生前退位に続き、皇室のスクープについては他社に負けないというNHKのプライドが見て取れるのではないでしょうか。

 個人的には、このニュースを知った時、2つの感情を抱きました。1つは素直に、「おめでたいな」という気持ちです。ICU時代の同級生ということで、本人とも親しく、宮内庁にも認められる良いお方なのだろう、という祝福の気持ちを抱きました。しかし、一方では、ある懸念も覚えました。それは天皇制の未来の議論における影響です。眞子さまのご結婚は、「皇族のひとりが皇室を離れる」という意味以上の、重大な意味を持っていると私は考えています。今回は天皇制の未来について書いてみたいと思います。

女性天皇」と「女系天皇

 まずは、これまで天皇制に関してどのような議論がなされてきたのかということについて簡単にまとめたいと思います。

 これを語るためには、「女性天皇」と「女系天皇」ということばについて理解しておく必要があります。「女性天皇」とは、読んで字のごとく女性の天皇です。本人が女性であるかどうか、そこが判断の基準です。一方で、「女系天皇」ということばがあります。これはすこし厄介な概念です。端的に言えば、「(その天皇の)父の父の父の……」と遡っていったとき、先代の天皇につきあたらない天皇のことを指します。そういってもわかりにくいと思うので、例を挙げてみましょう。仮に、愛子さまの子が天皇になったとします(こういう例えはひんしゅくをかうかもしれませんが)。この天皇は、「父の父の……」と遡っていっても、かつて天皇であった先祖が存在しません。これが女系天皇なのです。かなり乱暴な定義の仕方をすれば「父が神武天皇(初代)の血をひく天皇」ということになろうかと思います。

 ですから、「女性の男系天皇」も「男性の女系天皇」も理論上は存在しうる、ということになっています。こうしたことばをふまえて、天皇制の議論を見ていきましょう。

天皇制の危機

 さて、現在の皇室典範は、皇位継承権について、1条で「皇統に属する男系の男子」という要件を定めています。「男子」ですから、男性天皇しか認められておらず、眞子さまや佳子さまは天皇になることができません。同時に、「男系」と決められていますから、将来、愛子さまの子が天皇になることも不可能です。

 こうした状況の中で、皇位継承が危機に瀕しているという事実が存在しています。現在、皇位継承権を有しているのは、① 皇太子さま(1960年生) ② 秋篠宮さま (1965年生)③ 悠仁さま(2006年生) ④ 常陸宮さま(1935年生) の4名しかいません。そして、悠仁さま以外の3方がこれから新しい子を授かることは現実的に厳しいと言わざるを得ません。とすれば、天皇制の存続は、現行制度のままでは、悠仁さまに託されているということになるのです。果たして、そんなプレッシャーの中で、悠仁さまの后になる女性は現れるのでしょうか。悠仁さまにとっても、女性にとっても、窮屈な未来となってしまいます。

天皇制を存続するための選択肢

 こうした2000年以来の伝統が廃れる危機にあることを、まずは認識しなければいけません。そのうえで、まずは「天皇制が必要か?」という議論が沸いてきます。共産党をはじめ、天皇制については様々な議論があるのも事実です。しかしながら、今上天皇に対する世論調査などをみていると、天皇制に対する批判が大きいとは思えないのもまた事実です。

 そこで、「天皇制をどのようにして未来へ継承していくのか?」という議論へ移ることになります。小泉政権時代から、この問題は「喫緊の課題」として議論がなされてきました。

 一つの解決策は、「女性天皇」を認めるということでしょう。現在、天皇になれるのは男子だけですが、神武天皇以来の皇室の歴史を見てみると、実に8人10代の天皇が女性なのです(斉明天皇皇極天皇重祚称徳天皇孝謙天皇重祚)。こうした歴史から「女性天皇」を認めようという動きは少なからず存在しています。

 とはいえ、そうは言っても、これだけでは問題の解決には至りません。現行の規定から「男子」要件を緩めると、愛子さま、佳子さま、眞子さま、彬子さま、瑶子さま、承子さま、絢子さまが皇位継承権を持ちますが、皇室典範12条により、女性皇族は一般の人と婚姻すれば皇族身分を離れます。ということは、将来的には、やはり悠仁さまの子にしか皇位継承権が認められないのです。

 こうした状況のなか、近年の論壇を見ていると、問題解決への選択肢として大きな方向性が2つ提示されているように思えます。

① 男系を守る+旧宮家の復帰
② 女性宮家の創設から、女系天皇容認へ

 ①の選択肢は「男系」という2000年来続いてきた天皇にこだわる選択肢です。どうするかと言うと、1947年に皇籍を離脱した約50名の人々、そしてその子孫を皇族に復帰させるというアイディアです。この人々は「旧皇族」「旧宮家」と呼ばれています。この人々のうち「男系」の者に皇位継承権を与えていくことで、「男系」を守り抜こうというのです。ちなみに、「明治天皇の玄孫」としてメディアに出演し数々の自由奔放な発言をしている学者の竹田恒泰氏などもその一人です。

 ②の選択肢は、現在の皇族にこだわる選択肢です。どうするかと言うと、女性が結婚しても皇族に残る「女性宮家」の制度を整備すること、そして女系天皇を容認していくというアイディアです。佳子さまや愛子さまが将来結婚した時も、皇族に残るような制度設計をし、その子にも皇位継承権を与えていこうというスタンスです。

 この2つの立場はなかなか相容れず、21世紀に入って以降議論されてきたものの、結論が出せないままでいました。私はかねがね、早期に結論を出すべきだと考えてきました。それは、眞子さまや佳子さまなど、愛子さま以外の女性皇族が結婚適齢の時期にあるからです。②の選択肢をとるならば、女性皇族が結婚する前に結論を出さなければ意味がない―――そんな風に考えていたところでした。そこに飛び込んできたのが、今夜の「眞子さまご婚約」というニュースなのです。

眞子さまご婚約の影響

 今後も女性宮家の議論は続くでしょう。現政権では、女性宮家の創設を見送るというようなニュースもありましたが、議論自体はこれからもなされていくでしょう。

 しかし、今回の眞子さまご婚約の報は、女性宮家の創設、女系天皇の容認に大きな壁としてのしかかってくるのではないかと思います。それは、佳子さまと眞子さまの待遇が大きく異なってくることに対する反発です。眞子さまがご成婚され皇族を離れたあと、女性宮家が創設され、佳子さまは結婚しても皇室に残る。たった3歳しか年の離れていない姉妹にこうも差異ができてしまって良いのでしょうか。他の女性皇族を見てみても、30代が多く、婚期のわずかな差で身分に大きな差が出てしまうのは良くないのではないでしょうか。もちろん、制度が変わったら待遇が変わるのは仕方ないのだ、という意見もわかりますが、皇族というものの統一性と、制度を変えるならば「世代」を意識すべきだろう、と言うのが私の見方です。

 よって、従来検討の中心とされてきた②の案が勢いを失っていくのではないか、ということが予測されます。私は、どちらかと言えば①よりも②の立場に近い考え方を持ってきました。小さいころから皇族方の成長を見ているという”familiar”な視点こそが「国民統合の象徴」にふさわしく、重視すべきだと思っていたからです。いままで一般人だった人、そのこどもが突如皇位継承権をもつとしても少し違和感を抱いてしまうのも事実です。しかしながら「眞子さまご婚約」の報により、①の議論もかなり真剣に検討されるようになっていくのではないかと思っています。

現実的かつ「自由」を意識した議論を

 こうしたテーマには正直言って安全保障以上の国民的議論が求められます。そこで我々が留意しなければいけないのは、天皇をはじめとする皇族が――――一部制限されるとはいえ――――人権を有しているということであり、できる限り自由な選択をできるよう世論から議論を巻き起こしていかねばならないということでしょう。

 女性皇族が結婚適齢期にある今、どんなに遅くとも愛子さまや悠仁さまがその時期に入る前までには、結論を得なければなりません。現実的かつ皇族の「自由」を意識した議論を続けていく必要があります。

 

 おめでたい話題の中ですが、こうした影響も理解しておく必要があるでしょう。

 

 

 

 

 

 

憲法記念日に想うこと

70歳となった憲法

 憲法が70歳を迎えた―――そんな調子の報道が飛び交っています。「悲願」の改正か、「改悪」の阻止か。首相もついに2020年の憲法改正に言及しました。いずれにせよ、激しいトーンで論戦が繰り広げられています。しかし、「憲法」が政争の具となっている国は海外に例を見ません。それなのに、なぜ、日本の憲法は政争の具として利用されてきたのでしょうか。

 

 今日は5月3日、1947年に日本国憲法が施行されてからちょうど70年です。1947年、GHQの占領下にあった日本は、それまで持っていた「大日本帝国憲法」を捨て、民主的な現憲法を手に入れました。それからちょうど70年となる今日、各政党及び各マスメディアが一斉に憲法に対する見解を述べました。各メディアを探れば記事が見つかると思いますので、ぜひ読んでいただきたいところです。

 

 以降に綴るのは、「憲法とはなんであるか」ということです。これについては昨年の参議院選の総括記事の中でも触れましたが、今回はもう少し立ち入って考えてみたいと思います。

憲法とは何か? 

 憲法とは何か?という問いは、唯一無二の答えを選びません。憲法そのものをどう捉えるか、という点については、国民一人一人の意見に差が合って構わないと思っています。

 しかしながら、見方を変えて、「憲法は何のために存在しているか;憲法がない世界ではどういう不都合が生じるのか」ということを考えたとき、その答えは幾分か絞られるはずです。

 

 「国家の暴走を止めるために」存在しているのだ、という立場と「国のありていを他国に示すために」存在しているのだ、という立場に大きく分けられるのではないでしょうか。もう少し踏み込んで言うと、前者は憲法の規定のうち、「人権」に関わる規定を重視し、後者は「統治機構(司法・立法・行政の三権、そして安全保障)」に関わる規定を重視します。これは改憲・護憲の立場を問わず、各界の論客も身の回りの友人も総じて半々ぐらいに分かれるのではないかというふうに思います。それぞれの立場から考えてみましょう。

 

 「国家の暴走を止める」ということに主眼をおくならば、それは歴史的文脈から考えるべきでしょう。そこには、1789年の人権宣言以来、「市民革命」が背負ってきた絶対王政へのアンチテーゼがあります。国家を縄手人とし、われわれ国民が生まれながらにして持っている自由を守ろうという強い意志がみてとれます。

 

 「国のありていを他国に示す」ということは、明治初頭に日本の先人たちが命を懸けたことです。「近代国家」として欧米諸国から認めてもらうため、伊藤博文井上毅といった人物が憲法の起草にその生涯をかけました。他国を模倣した部分があるにせよ、自らの手で統治機構を定めるのだということに、近代国家の礎は存在しているのです。

 

 こうして見てもわかるように、一方の立場が正しく、片一方の立場が間違っているということはありません。私は、どちらかと言えば前者の立場に与しますが、統治機構の重要性もよく理解できます。憲法には「人権」と「統治機構」の記述があり、どちらに重きを置くかで保守・革新、護憲・改憲問わず憲法への見方が変わってくるだろうということを指摘しておきたいと思います。

 

 そのうえで、憲法には何を書き込むべきか、ということを考えてみましょう。この際、憲法は、普通の法律の上位に存在する「法」であるということを自覚せねばならないでしょう。法律より上の特別な存在であるからこそ、ときに政争の具になってきたのです。

 では、「憲法が特別な存在である」とはどういうことなのでしょうか。それは、「揺るがない」という点です。前の段落の内容と対応させれば、それぞれ、「権力者によって揺らぐことのない人権保障が達成されるから」、「近代国家として揺るがない体制であると誇示できるから」ということです。そうであるならば、「憲法改正」は体制を「揺るがす」ことになるのではないか。その懸念も理解できますが、「憲法改正」=「揺らぎ」だとは考えていません。大事なものを揺らぎのないモノにするために、細部を揺るがすことはありだろう、と思うからです。

 わかりにくいと思うので、例を挙げて説明します。後述しますが、私は憲法9条2項を削除すべきだという立場です。その立場をとる理由は、「具体的すぎるから」です。9条1項はパリ不戦条約に由来する「平和主義」の理念そのものです。ここが揺らぐようなことがあってはまずいでしょう。しかし、2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とするのは、〈「平和主義」という理念達成のために〉という視点で考えた時、選択肢が狭すぎないでしょうか。戦力の不保持という行き過ぎた具体性が、揺らがせてはならないはずの「平和主義」を逆に阻害することになるのではないでしょうか。それなりの裁量は必要なのです。

 もちろん、こういう論には課題もあります。本日付の毎日新聞が、現憲法において法律に委ねる点が多いことを懸念していました。とくに、地方自治について法律に委ねているのは問題ではないか、という点です。その通りでしょう。「地方自治制度」が憲法で規定されているに過ぎず、地方が国に対してどのような関係であるかについては、一切触れられていません。(「地方自治の本旨」というナゾの語があるに過ぎません。)揺らがないようにしなくてはいけないのは、「地方自治制度の存在」ではなく、「地方は国の言いなりにならない」という点だと考えるからです。

 

 以上の点から、「国民が合意できるもの」のみを憲法として残すべきだろう、と私は考えています。「揺るがない」=「すべての国民が合意できる」もののみを新たな憲法とすべきだと私は考えています。戦後「押し付け」論のロジックではなく、「憲法」そのものについてとらえる視点から、改憲論議を考えてみてはいかがでしょうか。

2017年の「危機管理」論❷

「0.1%」が起こってしまったときの日本はどうなる?

 これまで、朝鮮半島の現状について書いてきました、この文章で本当に書きたいのはここからの話です。前半で、日本の中枢機能がマヒしてしまう確率は0.1%程度だろう、ということを書きました。その0.1パーセントが起こった時、日本はどうなるのでしょうか。結論から言うと、「危機」に襲われた日本は、あまりに脆弱なのではないか?ということです。

 危ない点が2つあります。1つは「一極集中」であり、もう1つが「情報爆発」です。順を追ってみていくことにしましょう。 

一極集中と情報爆発

 まず、一極集中の問題です。東京の、しかもごくごく限られた部分に政治経済の中心が存在しているということです。ワシントンとウォール街、北京と上海、キャンベラとシドニーなど。他の国は一極集中にならない国づくりになっている国も多いです。イギリス、フランス、韓国などは、日本と同様に「一極集中」が都市計画の問題となっています。一極集中は非常に効率的なのですが、そこがダメになってしまうと、その国の他の地域もすべて機能しなくなってしまうという問題点があります。東日本大震災の例でいえば、岩手県大槌町が役場の本部が津波に呑まれ、行政の機能を一時失うという事態に陥ったこともありました。「中枢」、人間の体でいえば「脳」がマヒしてしまうのは、やはり危機的なのです。

 東京には、政治、経済だけでなく、人口、教育、資源も大量に存在しています。映画「シン・ゴジラ」を観た方は共感していただけるかと思いますが、大都市TOKYOがやられるリスクはあまりにも大きいのです。

 

 次に、情報爆発です。これは、熊本地震の時に起こった通信における現象の通称です。2016年の熊本地震は、「スマホ大国」日本が受けた初めての大災害だったといえます。2011年の東日本大震災の時は、スマホ保有率はまだまだ低く、安否確認はインターネットと電話によって行われました。しかし、2016年の熊本地震のときは、TwitterやLINE、Facebookなどで画像を含む大量の情報データがやり取りされたのです。

 日本は、SMAP解散や、あけおめメールで回線がパンクするような国です。回線の不備を質したいのではありません。日本はそれだけ情報化している社会である、と自覚すべきなのです。

 これにより、復旧のための情報が正しく機能しないという可能性が非常に高くなっているといえます。

オリンピックとテロ~共謀罪は必要か?

 

 日本の危機管理における問題点について考えてきましたが、オリンピックとテロについても考えなければならないでしょう。ISは日本を標的にすることを明言していますし、水際対策も十分とは言えないからです。

 海外に行けば、手荷物検査は日常茶飯事です。街中のゴミ箱も金属製のもので、仮に爆発物が入れられていたとしても被害が最小限に抑えられるようになっています。

 その一方、日本の公共交通機関に手荷物検査はありませんし、爆発物等への準備も不十分と言えるでしょう。もちろん、そういった自由度の高さが日本の長所でもありますから、バランスは必要ですが、対応を練っていく必要があります。

 

 こうした現状において、海外の人がたくさんやって来るオリンピックは、海外の国際犯罪組織からも狙われやすいでしょう。国際犯罪組織法に促される形で、法整備が進められている「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」について一言述べておきたいと思います。

 水際対策が弱い日本においては、計画段階で処罰するのも方向性としては十分アリだと私は考えています。テロを防止するためには、水際対策をしっかりする、計画段階で処罰する、のどちらかなのですから。(現在議論されている条文については問題があると思っていますが、それについては今回の文章では触れません。)

危機管理論 

 

 朝鮮半島有事。ソウルが火の海になり、世界シェア50%であるサムスン半導体が消えるかもしれない。東京も攻撃され、数十万人の命が失われるかもしれない。2020年には、オリンピック開催中にテロが起きるかもしれない。

 そうしたリスクがぬぐえない中で、その時の被害をできる限り小さくするため、私たちは何をすべきなのでしょうか。一極集中という構造的問題、巨大情報網という社会的問題、さらに水際対策の不足という現状があります。それらを克服するために、対策をとり始めるべき最後のタイミングが今年2017年なのではないかと私は思います。

 今回の朝鮮半島の緊張をきっかけに、私たちも日本の危機管理論に積極的に関わっていくべきだと思います。