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青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

2017年の「危機管理」論❷

「0.1%」が起こってしまったときの日本はどうなる?

 これまで、朝鮮半島の現状について書いてきました、この文章で本当に書きたいのはここからの話です。前半で、日本の中枢機能がマヒしてしまう確率は0.1%程度だろう、ということを書きました。その0.1パーセントが起こった時、日本はどうなるのでしょうか。結論から言うと、「危機」に襲われた日本は、あまりに脆弱なのではないか?ということです。

 危ない点が2つあります。1つは「一極集中」であり、もう1つが「情報爆発」です。順を追ってみていくことにしましょう。 

一極集中と情報爆発

 まず、一極集中の問題です。東京の、しかもごくごく限られた部分に政治経済の中心が存在しているということです。ワシントンとウォール街、北京と上海、キャンベラとシドニーなど。他の国は一極集中にならない国づくりになっている国も多いです。イギリス、フランス、韓国などは、日本と同様に「一極集中」が都市計画の問題となっています。一極集中は非常に効率的なのですが、そこがダメになってしまうと、その国の他の地域もすべて機能しなくなってしまうという問題点があります。東日本大震災の例でいえば、岩手県大槌町が役場の本部が津波に呑まれ、行政の機能を一時失うという事態に陥ったこともありました。「中枢」、人間の体でいえば「脳」がマヒしてしまうのは、やはり危機的なのです。

 東京には、政治、経済だけでなく、人口、教育、資源も大量に存在しています。映画「シン・ゴジラ」を観た方は共感していただけるかと思いますが、大都市TOKYOがやられるリスクはあまりにも大きいのです。

 

 次に、情報爆発です。これは、熊本地震の時に起こった通信における現象の通称です。2016年の熊本地震は、「スマホ大国」日本が受けた初めての大災害だったといえます。2011年の東日本大震災の時は、スマホ保有率はまだまだ低く、安否確認はインターネットと電話によって行われました。しかし、2016年の熊本地震のときは、TwitterやLINE、Facebookなどで画像を含む大量の情報データがやり取りされたのです。

 日本は、SMAP解散や、あけおめメールで回線がパンクするような国です。回線の不備を質したいのではありません。日本はそれだけ情報化している社会である、と自覚すべきなのです。

 これにより、復旧のための情報が正しく機能しないという可能性が非常に高くなっているといえます。

オリンピックとテロ~共謀罪は必要か?

 

 日本の危機管理における問題点について考えてきましたが、オリンピックとテロについても考えなければならないでしょう。ISは日本を標的にすることを明言していますし、水際対策も十分とは言えないからです。

 海外に行けば、手荷物検査は日常茶飯事です。街中のゴミ箱も金属製のもので、仮に爆発物が入れられていたとしても被害が最小限に抑えられるようになっています。

 その一方、日本の公共交通機関に手荷物検査はありませんし、爆発物等への準備も不十分と言えるでしょう。もちろん、そういった自由度の高さが日本の長所でもありますから、バランスは必要ですが、対応を練っていく必要があります。

 

 こうした現状において、海外の人がたくさんやって来るオリンピックは、海外の国際犯罪組織からも狙われやすいでしょう。国際犯罪組織法に促される形で、法整備が進められている「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」について一言述べておきたいと思います。

 水際対策が弱い日本においては、計画段階で処罰するのも方向性としては十分アリだと私は考えています。テロを防止するためには、水際対策をしっかりする、計画段階で処罰する、のどちらかなのですから。(現在議論されている条文については問題があると思っていますが、それについては今回の文章では触れません。)

危機管理論 

 

 朝鮮半島有事。ソウルが火の海になり、世界シェア50%であるサムスン半導体が消えるかもしれない。東京も攻撃され、数十万人の命が失われるかもしれない。2020年には、オリンピック開催中にテロが起きるかもしれない。

 そうしたリスクがぬぐえない中で、その時の被害をできる限り小さくするため、私たちは何をすべきなのでしょうか。一極集中という構造的問題、巨大情報網という社会的問題、さらに水際対策の不足という現状があります。それらを克服するために、対策をとり始めるべき最後のタイミングが今年2017年なのではないかと私は思います。

 今回の朝鮮半島の緊張をきっかけに、私たちも日本の危機管理論に積極的に関わっていくべきだと思います。

2017年の「危機管理」論❶

 

 

はじめに

 

 ミサイル。先制攻撃。そんな物騒な言葉が、メディアを賑わせています。朝鮮半島で戦争が起きるのではないか。それに日本も巻き込まれていくのではないか。SNSを中心に不安の声が多数挙がっています。

 今日は日本の危機管理について、考えてみたいと思います。昨日4月14日は、熊本地震の発生から、ちょうど一年となる日でした。その二日後に「本震」が来て、大混乱となったのも忘れられません。危機、ということでは、朝鮮問題と並んで、震災も考えなければならないテーマです。現代の日本はたくさんの「危機」に囲まれています。2020年に東京オリッピックを控えた今、「危機管理」についての意識を今一度高めていくべきではないでしょうか。そういった思いから、日本を取り囲む「危機」について書いていきます。

日本にミサイルは落ちるのか? 

 

 まずは、皆さんの最大の関心事である、「日本にミサイルは落ちるのか?」ということについて、私なりに考えていることを綴ってみます。

 結論から言って「どうなるかわからない」というのが本当のところですし、情報の大小こそあれ、これから起こることを正確に予測できている人はいないはずです。

 しかしながら、最悪のシナリオを考えることには意味があるはずです。起こり得る事態に備え、しかるべき人が対策をする、「その他大勢」である我々も心構えをする。最終的には、何も起こらないのだとしても、そこに価値を見出すべきだと私は思います。

 

 最悪の場合、日本に核が落ちてくることはありえます。可能性はゼロではありません。ただ、過去の経緯や現在のパワーバランスから考えて、その可能性は20%ぐらいだろう、というのが私の見立てです。日本に向けて核弾頭ミサイルが発射され、かつそれが東京に落下し、日本の中枢機能がマヒする確率となるとさらに低く、0.1パーセント程度でしょう。

 

 では、どのように事態は決着し、どういうケースにおいて上記の0.1パーセントが現実と化してしまうのでしょうか。考えてみましょう。

 まず、何も起きない、という可能性があります。確率としては、50%ぐらいでしょうか。中国やロシアが北朝鮮に対してうまく働きかけ、かつトランプ政権が抑制的に動いた場合です。しかし、こうした可能性が低くなっているのは、歴史的経緯を考えればわかります。2000年代から、北朝鮮は不穏な兆候を示してきました。それに対し他国は「経済制裁」という形で、六か国協議、安保理などの場で抗議の意を示してきました。

 その結果が現状なのだ、ということです。これまでのトランプ大統領の言動を見ていると、「オバマと同じ結論だけは避けねばならない」という使命感があるようにすら思えます。【オバマ前大統領が対話による解決を目指し、強い強い経済制裁を行っても、事態は一向に解決しなかったじゃないか、だったら、多少の犠牲が出ようとも短期間で結果をだすべきだ】というのがトランプ政権の方向性であると私は分析しています。よって、これまで通り経済制裁できりきりと北朝鮮をしめつけていく確率はそれほど高くないのです。(蛇足ですが、トランプ氏が北朝鮮と国交を結んでしまう、という可能性もこの50%の中にはあります。)

 

 残りの50パーセントのうち、残された可能性は大きく分けて2つあります。一つは金正恩総書記の暗殺です。可能性がないわけではありません。確率としては10%ぐらいでしょう。しかし、これは北朝鮮内部の大混乱・暴発を招く可能性があり、またそれ相応の時間もかかるため、アメリカが好んで選択するとは考えにくい面もあります。

 もう一つ(残り40%)は、米朝の衝突です。そして日本への被害によって分類した時、大きく分けて4つの状況が考えられるでしょう。

米朝の一発ずつの攻撃で事態が膠着化する(日本には影響なし)

 もしくは、

 朝鮮半島有事、すなわち韓国と北朝鮮の衝突(日本には影響なし)   30%

②米軍への報復射撃、あるいは、米軍を後方支援した日本への報復射撃で、沖縄にある基地に報復射撃(沖縄のみが被害を受ける) 10%

北朝鮮ICBMなどをアメリカに向けて発射するも、失敗し日本の領域内に落下(日本のどこかが被害を受ける)7%

集団的自衛権の発動に伴う参戦により、日本そのものが標的になる 3%

 そのうち、日本全体がマヒするような攻撃が起こるのは0.1%

 

という感じでしょうか。数字に根拠はありませんが、現状の国際情勢を見ているとこのぐらいのパターンがありえそうです。

 

 ここで最後に確認しておきたいのは、北朝鮮が日本を特別に狙う理由はほとんどないということです。北朝鮮の最大の関心事は韓国であり、韓国のバックにいる大国アメリカなのです。日本にエネルギーを割く余裕はほとんどないでしょう。

 最初に述べたように、「どうなるかまったくわからない」というのが識者も含めた国民の本音です。しかし、起きうるパターンを推測することはできます。「戦争になる!」とメディアに踊らされることなく、起きうるパターンをすべて頭に入れておいたうえで、冷静に事態をみつめることが大切です。

 

 朝鮮半島の状況について書くだけでこれほど長くなってしまったので、危機管理については、また後半で書きたいと思います。

(後半「0.1パーセントが実現してしまったときの日本は?」に続く) 

2016年から2017年へ――転換期としての2010年代――

 

 カテゴライズする便利さとカテゴライズする危うさの淵に我々は立っているのだということを、今、我々は噛みしめなければならない。ロゴス(論理)とパトス(感情)、あるいはtruthとpost-truth、あるいはエリートと民衆というような対立軸を作って、語る、正確には語りたがる。わかりやすいから、「分ける」のだ。わけて、「あれかこれか」で判断するのだ。

 この西洋的な価値観こそ、今最も揺さぶられているものだと僕は今考えている。現代にいたるまでの学問の底流には、「自由」のユニバーサリズムがあって、「正義」のヒューマニズムがあった。だけれども、それが2016年から2017年にかけて、根本から揺らいでいるのだ。

 

 「絶対的な正義などこの世に存在しないんだよ。」

 これはドラマ「相棒」で語られた、岸部一徳演じる小野田官房長のセリフだ。いまから綴ることはこの言葉に象徴される。

 近代の学問は、絶対的な普遍性や唯一の正義を追い求めてきた。300年前にニュートンがみつけた正しさが、いまだにauのCMでオマージュされる時代である。正しさへの畏敬の念は異常なほどだ。

 しかし、これから台頭してくるのはそれとは真逆の流れである。「対立するもののちょうど間にある『何か』こそが答えである」ということだ。そこに特定の価値観は存在しない。現在の学問の場でそんなことをいうと、「答えの放棄」だ、「思考の停止」だと罵倒されるか、あるいは嘲笑される。僕が抱く違和感はそこにある。

 例えば、さっきまで寝ようか寝まいか午前3時過ぎまで迷っていた。現在の価値観では、学問では、その結果は「寝た」か「寝なかった」か、どちらかの言葉で記述されるだけである。もう少し頑張って「寝ちゃった」と表現したところで、そこに「迷い」があったかどうかまでは汲み取れない。さらに、仮に「寝た」ところで、どこからが「寝た」ことになるのか、目をつむった瞬間なのか、あるいは、意識を失った瞬間なのか、あまりに曖昧である。迷いや揺らぎのようなものを言葉が掬い取ってくれない。そこに絶対的な普遍性は存在しない。

 世の中には、「お餅食べたい!」と11月あたりから熱望している食いしん坊もいれば、「別に餅になんて好きじゃねーけど、雑煮の中に入ってたから食ったわ」と不機嫌に語る天邪鬼もいる。どちらも「餅を食べた人」とカテゴライズされて一緒くたに扱われるのだ。その違和感のようなものがここ数年あたりからあらゆる世界に存在していて、それが次の世代へと社会を変革する原動力になるんじゃないだろうか、と僕は考えている。

 

 同じ流れで2016年を振り返る。2016年は「正しさ」が問われた年だったのではないか。「自由」とか「グローバリズム」とか、あるいは人と「協力」することとか。そういう「正しい」とされてきたことに疑問符が付いた一年だったんじゃないだろうか。

 不倫や薬物だって、そうだ。あれは二つの正しさが問われた問題だ。第一に、ベッキーのような清純派の人間が、あるいは清原のような朴訥な人間が「悪い」ことをする。でも不倫が悪いのはなぜだ?賭博や薬物が悪とされるのはそもそもなぜなんだ?人に迷惑をかける不倫が罪ではなく、自分が堕ちてゆくだけの薬物・賭博が禁止されているのはどうして?そんなことを考えさせられる。

 第二に、それを楽しむ背徳感、報じるメディアの正しさも問われた。ベッキーのLINE流出したよ、ASKAのタクシー映像流出したよ、それは本当に「正」や「善」なのか?「人の不幸は蜜の味」すなわち「快」なだけではないのか?正しい事実を伝えることは常に「正しい」のか?表現の自由を叫びながら、そこに疑問符が付くような報道をしたマスメディアについても、より一層厳しい目が向けられている。

 

 SMAPの解散に関して「正しさ」は何なんだろうか?感情の面から考えても、「見せかけの仲良しスマップなんか見たくない」という意見もあれば、シンプル に「さみしいから5人そろった姿を見ていたい」という声もあるだろう。あるいは、論理的な視点から、「経済的に損だから続けるべきだ」とも言える。

 そしてもっと真剣に考えなくちゃいけないのは、ファン以外の多くの人は、僕をふくめて、「あら、もったいない(でも、あたしには知ったこっちゃない)」と松居一代ぐらいのテンションで騒動を見ているに過ぎない、ということだ。続けるべき、やめるべき、ではなくて、その間に世の中の多数派は存在している。必死でもないけど、無関心でもない、そんなサイレントマジョリティをどう表現するかがこれからの課題だ。

 

 サイレントマジョリティというワードが出てきたので、欅坂のサイレントマジョリティについても触れておくことにする。まず欅坂46全体が醸し出す「アイドルらしくなさ」はこの文章のテーマにも沿う。アイドルらしくないアイドルとしての揺らぎがこの時代に受け入れられているのだろうと思う。そして、なにより楽曲「サイレントマジョリティ」の構図に触れておかねばならない。秋元康という天才に支配された彼女らが「大人たちに支配されるな」と謳っているのだ。この矛盾はすがすがしい。彼女らの「支配されているけれどもすべて支配されているわけではない」、あるいは作詞家秋元康の「すべては支配できないし、支配したくない」という思いがにじみ出ているように感じる。ここにも揺らぎがある。

 

 2016年のヒットを振り返る。『前前前世』は、語呂の勝利なのか?それとも、タイアップの勝利なのか?『シンゴジラ』は特撮なのか?社会派エンターテイメントなのか?PPAPだって、結局よくわからないけどあれだけヒットしたわけだし、パーフェクトヒューマンだって、星野源だって、ヒットしたものすべてがふわふわしていた。カテゴライズしにくいモノばかりだ。無理やりカテゴライズしても良いのだろうけれど、もうよいのではないだろうか?

 

 政治に目を向ければ、トランプもEU離脱も「右か左か」の2択を強いられている人たちの反逆のような気がしている。少なくともそういう分析が多数を占めている。小池百合子も、フィリピンのドゥテルテも、その流れの中で生まれてきたリーダーだ。「選びたくない」人たちから選ばれたリーダーが今世界の中心にいる。「選択強制社会」から地球が脱走しようとしているのだ。

 人々は、選ぶことを能動的にやめる。能動的に、というのが大事だ。選ぶことをやめることは、考えを停止することだ。余計な価値観やイデオロギーから解放され、最も合理的な選択肢を選ぶ。言ってみれば、能動的な「即レス」だ。だから、心地よくわかりやすい言葉を並べて、合理的なメニューを提示できる人間が勝つ。トランプや橋下徹が強いのはそこだ。だから、小難しい理論を並べても無駄だ。橋下徹ツイッターで自称インテリと自称人権派を徹底的にたたいているのも頷ける。

 

 即レス社会においては、SNSが大流行する。ツイッターでリプを送りあい、LINEでスタンプを送りあう。ことの果てには、現実を言葉にするのが面倒くさいから、すなわち、目の前の現実をカテゴライズするのが面倒くさいから、InstagramやSNOWが流行るわけだ。SNOWに至っては、現実をゆがめる楽しさまで僕たちに教えてくれている。

 別にこうしたメディアを批判しているわけじゃない。SNOWは人間を相対化させるものでしょ、すごいアプリだ。犬になれる、顔がゆがむ、顔が交換される。ヒューマニズム=人間中心主義の逆だ。人間に対するチャレンジだ。

 VRだってそう、人間の感覚器官が逆手に取られているのだから。夏には、ポケモンGOも大流行した。人間世界に存在しないものを人間が熱狂的に追い求めるわけだ。ツイッターで毎回大騒ぎするコミケも同じく。二次元と三次元の垣根がどんどんどんどんなくなっていく社会だ。

 おそ松くんは、同性愛の問題から出発しているだろうし、ユーリオンアイスも羽生やプルシェンコの活躍なくしては生まれなかっただろう。現実世界を下地として、人間は二次元の世界に陶酔する。

 スマホゲームにおける課金も同じ。2次元と3次元の境目は消えつつある。絶対的に正しいと信じられてきた3次元の社会すら、感覚的にはもはや正しいのかどうかわからなくなってきているのではないだろうか。

 

 人間に対する正しさの挑戦ということを考えたとき、真っ先に思いつくのは、――『進撃の巨人』ではなくて――人工知能AIだ。これが人間にとって一番の脅威になりうる。近所のスーパーのレジが自動化されたり、自動運転の車が爆発的に増えたりしている。囲碁界の世界トッププロがAI『アルファ碁』に敗れるなんていうニュースもあった。

 きっと核や原発と同じように、AIも現状維持の暴力と、革新の乱用の中で、期待と不安が語られていくのだと思う。産業革命のときにラッダイト運動が起こったように、人間は機会に対して牙をむくかもしれない。そのときに我々がよりどころにする「正しさ」とはなんだろうか?

 

 例えば、生まれた瞬間に、この地球上でもっともふさわしい結婚相手がDNAをもとに導き出される。100年後にはAIがそんなことをやってのけているかもしれない。職業も進路も部活動も何もかも「この人はこう生きるべきだ」ということが、生まれてすぐ、データとして導き出される。そんな世界ってどうなんだろうか?それが嫌であるなら、その事態を回避するために、我々が学ばなくちゃいけない倫理って何なんだろうか?

 

 今、我々は「正しさ」とは何か?を考えさせられる時期に来ている。そして同時に、高速の資本主義社会の中で、能動的に考えることをやめている。答えがあまりに曖昧だからだ。非合理的な部分がこの世の中にはたくさんあるからこそ、現在では合理性を求める潮流にあるのだろうし、基本的に僕もその流れに与する人間だと思っている。

 しかし、そう遠くない将来、「合理性の限界」にぶつかりうることを我々は想定しなくてはいけない。いつか、また価値観が必要となる時代がやってくる。それは50年後なのか、100年後なのか、分からないけれど。

 未来の人間が、歴史を遡り「価値観」のあった時代を探したとき、2010年代・2020年代にぶつかるだろう。2010年代を振り返り、彼らは何を思うのか。そこに2010年代の意義があるのではないだろうか。

仕事はそこにあるか――自由貿易とAIの波のなかで

トランプ氏の就任演説

 昨日、トランプ氏がアメリカ合衆国大統領に就任しました。就任演説で語られたのは、確かな「価値観」だと私は感じています。ブッシュには「民主主義の敷衍」という価値観が、オバマには「マイノリティへの寛容」という価値観が、それぞれ確かに存在していました。それに対し、経済の再生を訴えるトランプ氏の政策はビジョンがない、価値観がない、とさんざん叩かれてきました。

 しかし、昨日未明に行われた演説では、氏の確かな価値観が「言葉」として示されていました。それは「人民のための政治」ということであり「民主主義の原点に立ち帰る」ということでした。ポピュリズムと揶揄されようが、アメリカを良くするために、行動の時代を突き進むのだ、という氏の揺るぎない決意が改めて示されたものだったように思います。(トランプ氏のこの演説について様々な評がなされていますが、トランプ氏本人としては「せっかくの就任演説だからきれいな言葉を載せてみせよう」ぐらいの感覚しか持っていないのではないかと思っています。逆に言えば、オバマクリントンの演説は素晴らしいですが、さらっと言葉でカモフラージュしている部分も多いということです。)

 私個人としては、こうした演説は原文で読んでいただきたい、というのが率直な気持ちです。日本人識者の「私情」がねじ込まれた和訳は――それはそれで意味があるかもしれないけれど――氏の思いを理解していることにならないと思うのです。

トランプ氏の就任演説 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170121-38702737-bbc-int

オバマ氏の就任演説

http://english-learninghelp.com/obama_president_speech/

失業の構造

 

 さて今日、考えたいのは「職」についてです。アンチグローバリズムとも呼ばれる「保護主義」の流れが昨年から盛り上がってきているのはなぜなのでしょう。あるいは、AIの台頭によって、わたしたちの「職」はどのように変化していくのでしょうか。先進国と呼ばれる国々における「失業」の構造について、今日は考えてみたいと思います。

 まず、失業について考える前に、ここでいう先進国とは何か、ということについて触れておきたいと思います。実際、先進国・後進国という表現には若干の違和感がありますし、developed/developing countriesと表現してみても、「発展し終えた・発展している」とは何なのか、どの程度栄えていれば先進国なのか、よくわからなくなります。ということで、今回の投稿の中で、先進国と呼ぶのはOECDに加盟している32か国に限定して話を進めていくこととします。

 こうした前提のもと、以下では、失業という問題について2つの点からアプローチしていきたいと思います。一点目は、自由貿易に伴う国内分業の限界という視点、二点目は、高度の情報化に伴うAIの脅威という視点です。順に見ていくことにしましょう。

自由貿易は悪か?

 

 今、戦後グローバリズムの流れが、試練の時を迎えています。ブレトン=ウッズ体制、IMFGATT体制に始まり、戦後世界のリーダーたちが追い求めてきた「自由貿易」という理想が、過渡期を迎えているのです。

 そもそも、なぜ、我々は自由貿易を志向するのでしょうか?それ以前に、「自由貿易」とは何でしょうか?

これを考えるためには、18世紀のアダムスミス、19世紀のリカードの考え方から振り返る必要があります。18世紀のアダムスミスは、関税を中心とする保護貿易を目指す重商主義を批判しました。そして、関税を含む国家の介入を排し、自由に貿易を展開することで経済が発展・向上すると指摘しました。19世紀のリカードは、比較生産費説を説きました。比較生産費説とは、比較優位にある国(効率的に生産できる国)がその製品に特化して生産活動を行うこと、そしてその生産した商品を自由貿易で交換することによって、経済が発展していくのだ、という説です。

こうした中で、戦後は経済統合の歴史が進められてきました。ブロック経済保護主義)が第二次大戦を引き起こした一因となったという反省を受け、経済的に相互依存している状態をつくれば、戦争も起きにくいだろう、ということで、自由貿易が進められたのです。ブロック経済のキモであった「関税」を取り除くことが戦後の最大の課題でした。GATT以来の戦後国際経済は、関税撤廃の歴史でもあります。現在はWTOの主導の下、世界的な自由貿易の流れが進められています。また、EU内において関税が廃止されているだけではなく、NATONAFTATPPといった地域的な関税協定も先進国間で数多く結ばれてきました。

 

 しかし、こうした比較生産費説・自由貿易には大きな欠点があると言われています。国内分業が許されなくなる、という点です。リカードの比較生産費説では、ある国はある製品の生産に特化することが前提となっています。しかしながら、その国のすべての人間がある産業に特化するというのはかなり非現実的です。よって、無理に分業を推し進めてしまうと、「その産業で働きたい!」と思う人以外は働かないこととなり、かえって失業者が増加してしまうのです。

 さらに、先進国では、高い人件費も失業原因の一つとなっています。MUFGによる「アジア各国の一般工の米ドル建て月額賃金の比較」をみると、2015年、オーストラリアの人件費は3508米ドル、横浜の人件費は2588米ドルであるのに対し、マニラの人件費は317米ドル、ハノイの人件費は181米ドルです。企業としては、先進国で生産するよりも圧倒的に低コストに抑えられるので、発展途上国で製造するという選択をとるのです。ですから、先進国では求人数が減り、失業数が増えるのです。

実際、アメリカも自由貿易化の影響を大きく受けてきました。日本との自由貿易NAFTAでの関税低減により、アメリカ北西部の自動車産業が衰退したことには触れておかなければならないでしょう。以下は4年前のウォールストリートジャーナルの記事ですが、ミシガン州デトロイトの惨状が明らかになっています。(こうした地域の人々が冒頭で触れたトランプ演説におけるforgotten men and womenなのです。実際に先日の大統領選でも民主党有利と思われていたミシガン州でトランプ氏が勝利したことは大きな衝撃として日本でも伝えられました。)

http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304250704579098834091888494?mod=WSJJP_hpp_MIDDLENexttoWhatsNewsFirst

 こうしたミシガンの衰退と軌を一にするように、アメリカ自動車製造業のビッグスリーリーマンショック後の2009年に次々と倒れました。自由貿易と高い人件費によって先進国の産業が衰退した(=雇用が失われた)例の一つと言えるのではないでしょうか。自由貿易と雇用に関する議論は、もっと奥が深いものなので、またあとで筆を改めることにしようと思います。

AIの発展の先に  

 先進諸国のもう一つの側面、「高度な科学技術」という点から見ていきたいと思います。ブルーワーカ―・ホワイトワーカーという職種の区分けで語られることが多いですが、今日はそれよりももっとシンプルに考えていきたいと思います。

 

 「技術進歩」とは、言い換えれば人間と機械の闘争である。そんな見方も可能であると私は思っています。産業革命の際、イギリスの繊維工業者たちは新しく導入された機械を壊す運動(ラッダイト運動)を行いました。一番わかりやすいのはラッダイト運動でしょうが、インターネットが導入されたときも、少なからず抵抗はありました。なぜ、人間は抵抗するのでしょうか。それは、仕事がなくなるからです。産業革命によって紡績はすべて機械がやってくれるようになりました。人々の暮らしは便利になった一方で、紡績業に従事していた人々の職は奪われる結果となったのです。

 

 まず、製造業はこの機械化の波の影響を強く受けていると言えます。産業革命以来、最初に新技術の導入が進められてきたのはいつも製造業です。一連の規則的な作業は機械化されやすく、トヨタ自動車などでは大掛かりな機械を次々と導入しコスト削減を図っています。

 同時に、今後はAIの台頭により、製造業以外のフィールドでもあらゆる職が自動化されていくことが明らかになっています。

https://www.nri.com/jp/news/2015/151202_1.aspx

2015年末に野村総研が発表したこのデータでは、現在行われている仕事の49%がAIによって10~20年後までに代替可能になるということが示されています。自動運転然り、スーパーのレジの自動化然りというところですが、便利になると同時に、現在そこで働いている人の職が奪われるということも忘れてはなりません。

先進国の仕事のこれから

 

 先進国における失業、職業のこれからを考えていくと、そこには無秩序な自由貿易への懸念と、自動化への懸念に直面することになると思います。

 そこで必要になるのは、どこまで自由貿易を進めるのか、あるいはどこまで機械に頼るのか、というバランス感覚であり、そのバランス感覚を兼ね備えた新しいシステムを模索する独創性である、ということ。これが、不確実性にまみれた2017年において考えられる、精いっぱいの未来予想図なのではないでしょうか。

 今回は概論的なもので終始してしまったので、落ち着いたらそれぞれ論点についてまた筆を改めて書きたいと思います。

トランプ大統領の誕生に寄せて②~メディアと市民のズレ~

ノーベンバー・サプライズがもたらすもの

 今日も、全米各地でデモが起こっています。”No my president!”の掛け声とともに、大勢の人が街を練り歩く姿をみて、選挙結果の衝撃の大きさを改めて感じているところです。選挙戦最終盤にも何が起こるかわからない、という意味で使われている「オクトーバー・サプライズ」という言葉がありますが、今回の選挙結果はむしろ「ノーベンバー・サプライズ」というべきなのかもしれません。

 ノーベンバー・サプライズは決して一過性のものではないと私は捉えています。というのも、トランプが火をつけた「本音」は、アメリカの歴史、いや、世界の歴史に横たわる非常に根深いものだからです。前回の投稿では、南部の人たちとラストベルト周辺の人たちに焦点を当て、トランプ大統領当選の理由を探りました。前回の投稿でも述べた通り、アメリカの分裂はA対Bという形で表せないものとなっています。骨でいえば粉砕骨折のような状況です。今後政権が移行した後も、様々な形で、この亀裂は顕在化してくるだろうと思います。

 今回は、もう一つの視点、なぜメディアは「トランプ勝利」を見抜けなかったのか、ということについて考えてみたいと思います。

 

「隠れトランプ支持者」はいない?

 

 『隠れトランプ支持者』を見抜くことができなかった―――――そうメディアは口を揃えています。トランプ支持者であることを公言しにくい状況だったのだ、それは女性差別発言をはじめとする差別発言を連発したトランプ氏のせいだ、といった論調です。そもそも統計データのとり方が古いのではないか、とか、大手メディアに正直に答えるのが嫌になったのではないか、とか。

 私は「隠れトランプ支持者」はそれほど多くなかったのではないかと感じています。前回みた通り、ラストベルト地域におけるトランプ氏勝利の要因は沢山ありましたし、正確なデータに基づいて正しく分析していた人たちは接戦でトランプ氏が勝利することを予測できていた人たちもいます。それ以外の州ではほとんどの予想が当たっています。ですから、一概に「隠れトランプ支持者」によって予想が外れた、という風潮は少し違和感があるのです。

 問題はもっと深いところにあるのではないか。―――――上記のようなことを鑑みるに、私はそう考えています。メディアが「予想を外した」こと自体はそれほど大きな問題ではないでしょう。世論調査などは、時代の変化に合わせながらマイナーチェンジをしていけば良いだけの話です。私が看過できないのは、ハフィントンポストがトランプ氏をエンタメ欄で報じてきたことであり、CNNが「マトモなクリントンvsならず者のトランプ」の構図を選挙戦の最終盤まで崩さなかったことです。たしかに、各メディアで支持政党がはっきりしているのはアメリカ流の民主主義でもあると思います。しかし、〈支持する・支持しない〉の感覚が、あまりにも一般市民とかけ離れてはいなかったのか。それを垂れ流していた日本のメディア、そのズレを見抜けなかった我々一般市民も含めて、今一度「メディアと市民」の関係について、胸に手を当てて考えてみるべきだと思います。

 

気付けなかった「感覚のズレ」

 具体的に言えば、メディアの失敗は、トランプ氏の経済政策に対しまともに取り合えなかったことかと思います。法人税所得税の減税という政策は、非常に魅力的です。レガーノミクスを彷彿とさせる経済政策は、アメリカ国民の心をとらえたことでしょう。しかし、選挙中のメディアはと言えば、「なんかいろいろ言っているけどそんなの実現不可能だよね」程度の感覚で、トランプ氏の経済政策もサンダース氏の経済政策も見過ごしてきました。これが示しているのは、メディアの怠慢よりももっと根が深い、「感覚のズレ」です。

 アメリカメディアだってエゴで報道しているわけではないでしょう。世論調査の数字も謙虚に見てきたと思います。それでも「クリントン氏優位」の見方が動かなかったのは、メディアの中に白人の中~上位所得者層の声を代弁できる人があまりにも少なかったからでないでしょうか。本来権力に対して批判的であるべきメディアがエスタブリッシュメント化しているのです。だからこそエスタブリッシュメント=1%の象徴であったクリントン氏を支持したのだと思います。

 そんな彼らにとってトランプ氏の勝利は「見たくないもの」「知りたくないもの」です。実際に、アメリカメディアの関係者が「トランプが大統領になるはずない」と発言していたということも各種記事でさんざん言われています。「謙虚に」数字を見ていたつもりでも、どこかで「無意識のうちに」クリントン優位になるような見方をしてしまっていたのではないでしょうか。だからこそ、本当はそこまで隠れていなかったトランプ支持者に気付くことができず、「隠れトランプ支持者」が誕生してしまったのではないでしょうか。

 そうであるとすれば、「隠れトランプ支持者」の存在は、メディアにとって非常に、非常に、根の深い問題をはらんでいるといえるのではないでしょうか。

トランプ大統領の誕生に寄せて①~トランプ氏勝利の理由~

 昨日午後、「トランプ大統領」が誕生する見込みとなりました。この結果に驚いた方も多かったと思います。日本のテレビ局はこぞって驚きとともに大統領選の結果を伝えました。経済的にも大きな影響が出ています。日経平均株価も1000円以上値下がりし、また為替でも1ドル101円台まで円高が進みました。今日の株価は反発して1100円ほど値上がりし、まさに「乱高下」という状況です。

 「衝撃的」「まさか」と報じられるこの結果ですが、なぜその「まさか」が起きてしまったのでしょうか。あるいは、それを「まさか」に仕立て上げたものは何だったのでしょうか?今日は、詳しい分析が出ていない段階ではありますが、大統領選の結果について考えたことを書いてみたいと思います。

 

想定内の「想定外」

 トランプが勝つと思っていたか?と問われれば、私の答えはNOです。多くのメディアと同じく、最後はクリントンが勝つだろう、というのが私の予想でした。しかし、「想定外」が起こる可能性は十分にあると思っていました(無責任な言い方ですが)。そして「想定外」が起これば日本は混乱するだろうな、という考えも漠然ながら持っていました。

 というのも、アメリカメディア各社が行った直前の世論調査では、スイングステートでの支持が非常に拮抗していたからです。本当に最後の最後まで結果の読めない州が7~9州ありました。そこのほとんどをトランプ氏がとれば勝利もあり得る、いくつかの分析をみる限りトランプ氏勝利は捨てきれない、と考えていました。

 とは言え、比較的トランプ氏寄りの予測サイト(fivethirtyeight)でさえ、トランプ氏の勝利確率は30%程度でした。後述する「隠れトランプ支持者」の存在を織り込んで考えたとしても、その確率は50%を超えないだろう、というのが一般的な見方だったように思います。では、なぜトランプ氏は予想を上回る票を獲得できたのでしょうか。2つの観点から見てみたいと思います。

 
①レッドとブルーを超えてつながった人々 

 まず、トランプ氏の勝利を決定づけたフロリダ・ノースカロライナ両州についてみていきたいと思います。この二つの州はともにスイングステートと呼ばれる激戦州であり、前日までメディア各社の予想が割れていた地域です。これらの州でトランプ氏が勝てたのは何故かということを考える時、この両州の「メキシコに近い」という点を見逃すわけにはいきません。メキシコ不法移民による不安は全米に広がっていましたが、その中でもジョージア・サウスカロライナを含むこの地域では一層重大な問題として根付いていました。そこに現れたのがトランプ氏です。”Build the wall!”と叫びながら不法移民の排斥を訴えました。白人層はもちろん、合法的に入ってきた移民たちさえも、不法移民の被害者として悩んでいたわけですから、問題を解決してくれそうなトランプに期待したのです。だからこそ、トランプ氏は両州で激戦を制することができたのです。

 次に、「番狂わせ」となった本来ブルーステートの地域、ペンシルベニア・ミシガン・ウィスコンシンといったラストベルト地域について考えてみたいと思います。民主党の強力な地盤で、なぜトランプ氏は勝つことができたのでしょうか。考えられる理由は二つあると思います。一つ目は、天気です。都市部に多いとされる移民などの民主党支持者は、雨が降ると投票に行かなくなるとも言われています。一方、共和党支持者は義理堅く投票に赴くと一般的に言われています。そうした状況のなかでペンシルベニアやミシガンでは雨が降りました。雨の中投票所に並ぶミシガン州の人々の画像がツイッターにあげられていましたが、その中の多数がトランプ支持者だったということなのかもしれません。二つ目は、白人労働者の不満です。以前の投稿で、「プア・ホワイト」という表現を使ったと思うのですが、それは間違いでした。トランプを支持した層を年収別に調べてみると、年収500万円以下の層はヒラリー氏を支持している人の方が多くなっています。むしろトランプ支持の中心となったのは年収500万~1000万の白人労働者です。平均年収を上回る人々がなぜ苦しんでいるのでしょうか。それは、「以前より」「昔より」苦しくなっているからです。〈自分たちは一応高校教育や短期大学教育を受けて、まじめに働いている。それなのに、なぜニューヨークやワシントンの一部の人間だけしか裕福に暮らせないのか?NAFTAやなんやら知らないが、我々が続けてきた自動車産業はもう瀕死の状態だ!〉これがペンシルバニアやミシガン、ウィスコンシンの人々の本音です。怒りです。今朝方知りましたが、この8年間でこれらの州ではすべて共和党知事が誕生していたようです。もちろん、トランプがこの地域に力を注いで選挙運動を展開したことも功を奏しているとは思いますが、「NAFTA反対、所得税減税」を訴えるトランプ氏が勝利したのも頷ける背景が存在していた、というところではないでしょうか。

②分断された人々

 トランプ氏は決して保守的な政治家でない、と私は思っています。アメリカンファースト・孤立主義ではあるけれど、それは決して高齢者や女性やマイノリティを見殺しにするというのではありません。これまでの社会福祉政策を基本的には継続したうえで、その上に経済発展を描いていこうとしているのです。この点で従来の共和党の「小さな政府」型経済政策とは決定的に異なります。〈1%の「上」とそれに頼るしかなかった年収500万円以下の人々=有色人種と都市部中心のクリントン陣営〉対〈政治的に取り残されてきた(相対的な)「下」=白人中心のトランプ陣営〉。

 右・左や白人・有色人種、あるいは男・女といった区別を越えて、今回の選挙戦ではそのような構図にアメリカが分断されたのです。

 

 当然のことながら、年収500万円以下の人々が必ずしもクリントン氏を応援したわけではありません。クリントン氏支持に回らなかった人々の中には、バーニー・サンダース氏に熱狂した人々が含まれます。「1%の金持ちと99%の貧乏人」というのはサンダース氏が訴えた言葉ですが、この言葉に共感した人々は1%の代表であるクリントン氏が嫌いなのです。実際にミシガン・ウィスコンシン民主党予備選ではサンダース氏が勝利しています。サンダース氏が蒔いた種はいつか花を咲かせるかもしれませんが、今回の大統領選挙の結果にも影響を与えたといえるのではないでしょうか。

 こうした結果からもわかるように、「1%」の人々は、今回の選挙の結果を本当にショッキングなものとしてとらえているのだと思います。クリントン大統領の誕生を信じて疑わなかったNYやワシントン、カリフォルニアといった大都市部の人々です。ハリウッドスターたちも、レディー・ガガもマドンナも。オバマ夫妻も敗者の一人です。オバマ大統領にいたっては、投票日直前に「トランプほど大統領にふさわしくない人物はいない」と発言したほどで、全面的にクリントン氏を支持していましたから、ダメージは大きいでしょう。現状維持のエネルギーは変革のエネルギーの前に敗れました。

 さらに、共和党のエスタブリッシュメントホワイトハウスの中枢からは距離を置くこととなりそうです。ジェブ・ブッシュ氏や知日派として知られるアーミテージ氏などです。彼らはトランプになるくらいなら民主党を応援するとさえ言っていたグループであり、もう元には戻れないでしょう。共和党予備選でトランプ氏と戦ったテッド・クルーズ氏やマルコ・ルビオ氏といった2010年当選の改革組がこれからの新しい共和党を作っていくことになるでしょう。

 いずれにしても、様々な分裂がA対Bとくくれない形で発生しています。それがまさに2016年のアメリカを象徴しているのであり、多様性を求めたが故の21世紀型「Civil War」なのかもしれません。

 

「トランプ大統領の誕生に寄せて②」に続く

「お気持ち」表明の本当の意味

はじめに

 一か月以上に及び記事を更新できませんでしたが、ここからまた少しずつではありますが更新を続けていきたいと思います。

衝撃的な「生前退位」

 7月の半ば、衝撃的なニュースが飛び込んできました。今上天皇が「生前退位」の意向を示された、というニュースです。日本中が驚きました。

 世間の反応はというと、生前退位ってなんだ?とか、平成終わるじゃん!のような声が高まり、普段あまり耳にしない皇室のニュースにざわざわしていたような気がします。天皇の体調のことも心配しているけれど、それより「元号」のことが気になる、というのが本当のところではないのでしょうか。

 一時的に盛り上がったとはいえ、それからの一か月間は比較的落ち着いた形でその流れが進められてきました。そして8月8日、午後3時から「お気持ち」という形で、天皇のビデオメッセージが公表されました。国内外からの様々な反響はありましたが、実際は、リオオリンピックにかき消されそこまで大きな話題とはなりませんでした。

 そして9月5日、「特措法」による特例という形で生前退位を認めることが報道により明らかになりました。同時に皇室典範改正、女系・女性天皇問題など皇室に関わる問題が政治問題となってきています。以下では、今上天皇が描く「天皇像」を読み解きながら、その天皇像がもたらす功罪を検討してみたいと思います。

「お気持ち」表明全文を読んで―天皇とはどうあるべきか?

 天皇の「お気持ち」をすべて読むと、天皇陛下自身の価値観が少しずつ見えてきます。「天皇とは、どうあるべきか?」という深淵な問いに真摯に向き合い続けてきた天皇の苦悩が見えてきます。

 

『自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』

 この表現が、象徴天皇としての役目を定義した部分として語られています。天皇といえば、被災地などを訪問したり、式典でおことばを述べたりすることが役目だ、というイメージを抱く方も多いでしょう。しかし今上天皇は、こころのあり様をもって自らを定義づけたのです。

 憲法では国事「行為」を行うものとして定義づけられている「天皇」ですが、今回のお気持ち表明は、法による定義でないとはいえ、天皇自らが天皇を再定義したものと評価することもできるでしょう。

 そして、この定義は憲法における天皇をより進化させたものであると評価できるでしょう。外見的な行為だけでは足りず、内面的な心のあり様まで評価の対象となる、というものだからです。「象徴天皇というものは、存在それ自体が価値を持つものではない。国民の心に寄り添ってはじめて価値を持つのだ。」という天皇の理想と強い意志が垣間見えます。血統的にも道徳的にも「立派な」天皇というものを今上天皇は追い求めていると言えます。

 こうした「お気持ち」表明は、先の戦争に対する猛烈な反省を起点としていることも間違いありません。以下ではここまでの記述を歴史的な観点からさらに深く分析してみようと思います。

「人間である」ことの追求

 「お気持ち」から読み取れる事について偉そうに書いてみましたが、偉そうついでにさらに話を展開させてみたいと思います。

 

 今上天皇による「お気持ち」表明の背景にあるのは〈「人間」であることの追求〉であるように思います。日本の歴史を簡単に振り返りながら、「神」的な天皇から「人間」的な天皇への変動を振り返っていきましょう。

 日本の歴史の始まりといえば、神武天皇に始まる「古事記」や「天皇記」の世界です。この時代、天皇はまさに「神」でした。神の子孫が天皇であるという認識のもと、皇族による統治が進み始めるのです。聖徳太子天智天皇中大兄皇子)、天武天皇といった時代には、「皇族」であることが為政者の条件でした。

 その権威を外側から利用しようとした者たちがいます。藤原道長であり、平清盛であり、江戸幕府であり、明治政府です。藤原家や平家は、娘を天皇の后にして自らが天皇の外祖父となるという手法で権力を伸ばしました。江戸幕府も、17Cには「天皇の上に立つもの」と自らを位置付けていましたが、18C後半から19Cにかけては「天皇から統治を信託されたもの」として、天皇の権威を借りる形で政治を行いました。日本の歴史は「天皇の威を借る狐」たちによって動かされてきたといっても過言ではありません。

 大日本帝国憲法下の日本では、「万世一系ノ天皇」が「統治」することとなりました。戊辰戦争の「錦の御旗」や「王政復古」に象徴される通り、明治政府は自らの権力のために天皇を積極的に利用しました。

 そして時代は昭和へと下ります。戦前、軍部の青年将校たちが昭和天皇を「担いで」日本を第二次世界大戦へと導いたことはいうまでもありません。そして日本は戦争に敗れました。この結果、「天皇」像が大きく変わることとなります。1946年の元日に発表された昭和天皇による所謂「人間宣言」は、まさに「神」的な天皇の終わりと「人間」的な天皇の始まりを宣言したものでした。同時に世論は「神」が「政治化」することの怖さを痛感しました。昨今議論されている全体主義への忌避はここに起源を有します。

 改正された日本国憲法下では、天皇は「日本国民統合の象徴」になりました。天皇は人間であることを前提として、国民の象徴として国事行為を行うようになりました。憲法天皇は「国民」ではありませんが、「一人の人間」として社会の中に位置づけられたといえます。

 

 「神」による政治から「天皇(神)の威を借る狐」たちによる政治へ。その流れの中で「天皇(人間;国民)の威を借る民主制」が展開されたことは時代の要請だったのかもしれません。

 

 この「人間」としての天皇像が、まさに上で述べた「立派な」天皇像なのです。神ではなく、国民として生きることこそが、天皇の務めなのだ、という今上天皇の意思が伺えます。天災が起これば駆けつけて被災者を励ますこと。土葬から火葬へ切り替えるなど、歴代続いてきた慣習に拘りすぎないこと。テロが起これば、たとえ外国の出来事であろうと深い悲しみを示すこと。「日本国民統合の象徴」という半ば押し付けられた抽象的な存在を受け入れ、自分自身を「国民」「人間」に近づけようという姿が見て取れます。

 その意味で、逆らおうにも逆らい得ぬ高齢化は、「人間」であることの追求を阻むものだったといえます。現在の日本には、0歳の赤ちゃんから100歳を超える老人まで、1億2000万の国民がいます。彼らのあらゆる素晴らしさやあらゆる悲しみやあらゆる習慣を体現する「象徴」としての役割を、81歳の老爺(あえてここではこの表現を使います。)が背負っていくのは厳しすぎる、と今上天皇は判断したのです。摂政の可能性を否定したのも、他者に利用されることで「国民統合の象徴」から御簾の向こう側の「神」へと逆戻りしてしまうことを恐れたからではないでしょうか。

 

議論すべきことは何か?

 巷では様々な議論が展開されています。このケースを法的にどう処理すべきなのか、女性天皇も同時に認めるべきでないか、といった議論です。しかしながら、いずれの議論も、戦後70年来重ねられてきた議論ですが、一向に結論への道筋は見えてきません。

 

 今、議論すべきは「天皇にどこまで求めるべきか?」ということではないでしょうか。確かに、今上天皇は、国民の7割以上が支持するような「立派な」天皇像を築き上げました。しかしながら、20年あるいは100年先を見据えた場合、この今上天皇のレベルが高いハードルとなる可能性も否定できません。遠い将来、もし仮に血統的に天皇家の存続が危ぶまれ、かつ、天皇に高いレベルの国事行為が課されるような場合、天皇制自体の存続が難しくなるかもしれません。

 「多少国事行為の量や質が低下しようとも、天皇制を守っていくべきだ。国を動かすのは、国民から信託された三権だ。」という価値観と、「天皇という存在が形骸化し他者に利用されてしまわないように、ハイレベルの道徳的な国事行為を実行できる人物だけが天皇になるべきだ。その結果、天皇制が危機に陥ろうとも致し方ない」という価値観の衝突です。

 もちろん、今上天皇天皇制の危機を招こうとしているのではありませんが、将来的にはそのような展開もあり得るのです。私は、どちらかといえば、後者の価値観に与しますが、国民を巻き込んだ民主的な議論が待たれるところです。天皇が「日本国民統合の象徴」である限り、その存在がどうあるべきか?ということについては国民が決定すべきです。皇室典範の改正や女性天皇の容認などの問題も、こうした議論の中から結論が導かれるものと思われます。さらなる議論の中で、本質的な問題が検討されることを期待しています。