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青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

女性宮家の議論をどう進めるべきか

女性宮家の議論

 眞子さまご婚約の報を受け、天皇制の今後について記事を更新しました。多くのメディアも、眞子さまの結婚を祝いつつ「天皇制」のあるべき姿について識者の意見を報じています。私の拙記事自体は、女性宮家女系天皇を認める流れがやや弱くなり、旧宮家皇籍復帰が現実味を帯びてくるだろう、というものでした。

 国会では、「女性宮家の創設を急ぐべきだ」「早期に結論を出すべきだ」という意見が野党・民進党を中心に強くなりつつあるのも事実です。一方で「眞子さまのご婚約を政治利用すべきでない」という女性宮家反対論者の声も報じられています。自民党幹部から慎重論が沸きあがっているほか、八木秀次氏に至っては「旧宮家皇籍復帰しか選択はない」という趣旨でインタビューを受けています。自民党幹部の間でも意見が割れており、この問題が棚上げにされてきた所以を感じているところです。

 今回は、そうした意見対立に対しての、私の見方を簡単に書いてみたいと思います。

「ご成婚する前に」はダメ

 まず、私が懸念しているのは(可能性は限りなく低いですが)「眞子さまを皇室にとどめる」という展開です。今上天皇生前退位特例法案の付帯決議について、民進党の安住代表代行などが「早急に」女性宮家創設の決議を盛り込むべきという主張をしています。安住代表の「早急に」は決議に関してのことであり、「眞子さまを皇室に」という意図はないと思います。氏のメッセージには基本的に賛成です。しかしながら、急いだあまり「眞子さまが結婚後も皇室に残る」という展開は避けなければならないと思っています。

 眞子さまのご成婚までは一年以上あるとみられていますから、それまでのタイミングで女性宮家が創設されることは、可能性としてはあり得ます。しかしながら、ご婚約内定の報が世間に出てしまった以上、それは後出しじゃんけんに他ならないと思うのです。眞子さまの意思としても、女性宮家創設が決まる前に婚約をして、そのあとで女性宮家が創設され皇籍身分のままになるのは、複雑な心情でしょう。

 少なくとも、眞子さまに関しては、現行皇室典範12条にしたがって皇室離脱がなされるべきだと思っています。もちろん、今後の公務「的」な活動(黒田清子さんも宮中晩さん会などに出席していました)には、必要に応じ、ご本人の意思に基づき参加されれば良いのではないかと思っています。

女性宮家旧宮家

 そのうえで、制度に関する結論はやはり急ぐべきだと思っています。前回の記事でも触れた通り、未婚の皇族女子は、愛子さまを除き、いつ結婚してもおかしくない年齢にあります。この皇族方が次々と結婚ラッシュを迎えるような事態になれば、「旧宮家の皇族復帰」という選択肢しか現実としてありえなくなってしまいます。

 国民の総意に基づく天皇制について、そのような消極的選択は避けるべきでしょう。選択肢があるうちに決めておかなければ、「天皇」を認める人と認めない人がでてきてしまい、天皇制の実質が崩れてしまいます。そのためにも国民の議論の中で、少なくともあと5年後までには結論を出す必要があるでしょう。

女性宮家に親和的な理由

 前回の記事の中で、私は「女性宮家から女系天皇へ」という立場に与する人間であるということを述べました。それは伝統を崩すデメリットがあることも確かです。しかしながら、考えるべきは、『我々は「女系天皇」「旧宮家の皇族復帰」の2択でどちらを選ぶのか』ということです。何かウルトラCがあれば別ですが、実際はこの2択でしょう。

 そうして考えてみると、「男系男子」に合理的な理由があるのか?という疑問と向き合うことになります。もちろん「伝統」とどこまで向き合うのかという哲学的な話ともつながるのですが、私(20代)―――「男女平等」のスローガンが生まれた時からそばにあった―――の感覚としては、「男系」にこだわる正統性がどこにあるのかという思いの方が強いのです。そしてそうした感覚は、40代以下の層に広く浸透しているのではないかと私は感じています。

 こういうことを言うと「伝統の重みを理解せよ」という保守系の大人の方々からのご指導を受けることになるでしょう。「かつては女系天皇がいた」という論理が苦しいのもわかっています。

 とはいえ、憲法1条は「国民の総意」と言っているのです。小さいころから一挙手一投足を報じられてきた現皇室の方々と、制度によって「この人が皇族になりました」という旧宮家の人々。どちらが「総意」としてふさわしいのかということを考えれば、―――私個人の意見というよりも―――前者を選ぶ人の方が多いのではないかと思うからです。

女性宮家論の苦境

 眞子さまのご婚約が、女性宮家慎重論につながっていくのではないか、ということを前回の記事で述べました。現在未婚の女性皇族間で差ができるのは望ましくないだろう、という私の考えからです。一方で、多くの人が容認するのであれば、これからの女性宮家の創設が引き起こす事態に懸念を示す必要はなくなるとも思っています。

 具体的に考えられるのは、眞子さま皇籍離脱したのち、皇室典範が改正され、近い将来佳子さまがご結婚された際も皇族身分のまま皇室に残る、という状況です。この状況をどう見るかという問題です。望ましいか望ましくないかで考えたとき、私自身は望ましくないと考えています。眞子さま、佳子さまにそれぞれ子が誕生したとして、先に結婚した眞子さまの子は皇位継承権を得られない一方で、佳子さまの子は皇位継承権を得られるという事態になるからです。そこを割り切れるかどうかが女性宮家議論の今後の争点になっていくでしょう。割り切れるという世論の方が多ければ、そこに異議を唱える気はありません。

ダブル国民投票も視野に入れるべき

 

 もし、グダグダした国会議論の最中に未婚の女性皇族が全員結婚してしまうようなことになれば、それはこの国の天皇制というものの実質が大きく損なわれかねません。また、制度の行く末が極めてあいまいな状況では、未婚の皇族方も非常に不自由な選択を迫られることになります。眞子さまの意思も、他の皇族の意思も、尊重したうえで、「国民の総意」に基づく結論が急がれます。

 天皇制の行く末について、憲法改正国民投票(首相の目論見通りいけば、ですが)と同時に国民の信を問うてもいいはずです。むしろ私はそうするべきだと思っています。「総意」という重い二文字をいかにして実現させるか、他のアイディアも含めて、国民の側からも議論を起こしていかねばなりません。

 

 

眞子さま婚約が「天皇制」に与える影響

眞子さま婚約というスクープ

 今夜、NHK「ニュース7」が「眞子さま婚約へ」というビッグニュースをトップで伝えました。それに続き、各通信社・新聞社も続々と速報や号外をうっています。今上天皇生前退位に続き、皇室のスクープについては他社に負けないというNHKのプライドが見て取れるのではないでしょうか。

 個人的には、このニュースを知った時、2つの感情を抱きました。1つは素直に、「おめでたいな」という気持ちです。ICU時代の同級生ということで、本人とも親しく、宮内庁にも認められる良いお方なのだろう、という祝福の気持ちを抱きました。しかし、一方では、ある懸念も覚えました。それは天皇制の未来の議論における影響です。眞子さまのご結婚は、「皇族のひとりが皇室を離れる」という意味以上の、重大な意味を持っていると私は考えています。今回は天皇制の未来について書いてみたいと思います。

女性天皇」と「女系天皇

 まずは、これまで天皇制に関してどのような議論がなされてきたのかということについて簡単にまとめたいと思います。

 これを語るためには、「女性天皇」と「女系天皇」ということばについて理解しておく必要があります。「女性天皇」とは、読んで字のごとく女性の天皇です。本人が女性であるかどうか、そこが判断の基準です。一方で、「女系天皇」ということばがあります。これはすこし厄介な概念です。端的に言えば、「(その天皇の)父の父の父の……」と遡っていったとき、先代の天皇につきあたらない天皇のことを指します。そういってもわかりにくいと思うので、例を挙げてみましょう。仮に、愛子さまの子が天皇になったとします(こういう例えはひんしゅくをかうかもしれませんが)。この天皇は、「父の父の……」と遡っていっても、かつて天皇であった先祖が存在しません。これが女系天皇なのです。かなり乱暴な定義の仕方をすれば「父が神武天皇(初代)の血をひく天皇」ということになろうかと思います。

 ですから、「女性の男系天皇」も「男性の女系天皇」も理論上は存在しうる、ということになっています。こうしたことばをふまえて、天皇制の議論を見ていきましょう。

天皇制の危機

 さて、現在の皇室典範は、皇位継承権について、1条で「皇統に属する男系の男子」という要件を定めています。「男子」ですから、男性天皇しか認められておらず、眞子さまや佳子さまは天皇になることができません。同時に、「男系」と決められていますから、将来、愛子さまの子が天皇になることも不可能です。

 こうした状況の中で、皇位継承が危機に瀕しているという事実が存在しています。現在、皇位継承権を有しているのは、① 皇太子さま(1960年生) ② 秋篠宮さま (1965年生)③ 悠仁さま(2006年生) ④ 常陸宮さま(1935年生) の4名しかいません。そして、悠仁さま以外の3方がこれから新しい子を授かることは現実的に厳しいと言わざるを得ません。とすれば、天皇制の存続は、現行制度のままでは、悠仁さまに託されているということになるのです。果たして、そんなプレッシャーの中で、悠仁さまの后になる女性は現れるのでしょうか。悠仁さまにとっても、女性にとっても、窮屈な未来となってしまいます。

天皇制を存続するための選択肢

 こうした2000年以来の伝統が廃れる危機にあることを、まずは認識しなければいけません。そのうえで、まずは「天皇制が必要か?」という議論が沸いてきます。共産党をはじめ、天皇制については様々な議論があるのも事実です。しかしながら、今上天皇に対する世論調査などをみていると、天皇制に対する批判が大きいとは思えないのもまた事実です。

 そこで、「天皇制をどのようにして未来へ継承していくのか?」という議論へ移ることになります。小泉政権時代から、この問題は「喫緊の課題」として議論がなされてきました。

 一つの解決策は、「女性天皇」を認めるということでしょう。現在、天皇になれるのは男子だけですが、神武天皇以来の皇室の歴史を見てみると、実に8人10代の天皇が女性なのです(斉明天皇皇極天皇重祚称徳天皇孝謙天皇重祚)。こうした歴史から「女性天皇」を認めようという動きは少なからず存在しています。

 とはいえ、そうは言っても、これだけでは問題の解決には至りません。現行の規定から「男子」要件を緩めると、愛子さま、佳子さま、眞子さま、彬子さま、瑶子さま、承子さま、絢子さまが皇位継承権を持ちますが、皇室典範12条により、女性皇族は一般の人と婚姻すれば皇族身分を離れます。ということは、将来的には、やはり悠仁さまの子にしか皇位継承権が認められないのです。

 こうした状況のなか、近年の論壇を見ていると、問題解決への選択肢として大きな方向性が2つ提示されているように思えます。

① 男系を守る+旧宮家の復帰
② 女性宮家の創設から、女系天皇容認へ

 ①の選択肢は「男系」という2000年来続いてきた天皇にこだわる選択肢です。どうするかと言うと、1947年に皇籍を離脱した約50名の人々、そしてその子孫を皇族に復帰させるというアイディアです。この人々は「旧皇族」「旧宮家」と呼ばれています。この人々のうち「男系」の者に皇位継承権を与えていくことで、「男系」を守り抜こうというのです。ちなみに、「明治天皇の玄孫」としてメディアに出演し数々の自由奔放な発言をしている学者の竹田恒泰氏などもその一人です。

 ②の選択肢は、現在の皇族にこだわる選択肢です。どうするかと言うと、女性が結婚しても皇族に残る「女性宮家」の制度を整備すること、そして女系天皇を容認していくというアイディアです。佳子さまや愛子さまが将来結婚した時も、皇族に残るような制度設計をし、その子にも皇位継承権を与えていこうというスタンスです。

 この2つの立場はなかなか相容れず、21世紀に入って以降議論されてきたものの、結論が出せないままでいました。私はかねがね、早期に結論を出すべきだと考えてきました。それは、眞子さまや佳子さまなど、愛子さま以外の女性皇族が結婚適齢の時期にあるからです。②の選択肢をとるならば、女性皇族が結婚する前に結論を出さなければ意味がない―――そんな風に考えていたところでした。そこに飛び込んできたのが、今夜の「眞子さまご婚約」というニュースなのです。

眞子さまご婚約の影響

 今後も女性宮家の議論は続くでしょう。現政権では、女性宮家の創設を見送るというようなニュースもありましたが、議論自体はこれからもなされていくでしょう。

 しかし、今回の眞子さまご婚約の報は、女性宮家の創設、女系天皇の容認に大きな壁としてのしかかってくるのではないかと思います。それは、佳子さまと眞子さまの待遇が大きく異なってくることに対する反発です。眞子さまがご成婚され皇族を離れたあと、女性宮家が創設され、佳子さまは結婚しても皇室に残る。たった3歳しか年の離れていない姉妹にこうも差異ができてしまって良いのでしょうか。他の女性皇族を見てみても、30代が多く、婚期のわずかな差で身分に大きな差が出てしまうのは良くないのではないでしょうか。もちろん、制度が変わったら待遇が変わるのは仕方ないのだ、という意見もわかりますが、皇族というものの統一性と、制度を変えるならば「世代」を意識すべきだろう、と言うのが私の見方です。

 よって、従来検討の中心とされてきた②の案が勢いを失っていくのではないか、ということが予測されます。私は、どちらかと言えば①よりも②の立場に近い考え方を持ってきました。小さいころから皇族方の成長を見ているという”familiar”な視点こそが「国民統合の象徴」にふさわしく、重視すべきだと思っていたからです。いままで一般人だった人、そのこどもが突如皇位継承権をもつとしても少し違和感を抱いてしまうのも事実です。しかしながら「眞子さまご婚約」の報により、①の議論もかなり真剣に検討されるようになっていくのではないかと思っています。

現実的かつ「自由」を意識した議論を

 こうしたテーマには正直言って安全保障以上の国民的議論が求められます。そこで我々が留意しなければいけないのは、天皇をはじめとする皇族が――――一部制限されるとはいえ――――人権を有しているということであり、できる限り自由な選択をできるよう世論から議論を巻き起こしていかねばならないということでしょう。

 女性皇族が結婚適齢期にある今、どんなに遅くとも愛子さまや悠仁さまがその時期に入る前までには、結論を得なければなりません。現実的かつ皇族の「自由」を意識した議論を続けていく必要があります。

 

 おめでたい話題の中ですが、こうした影響も理解しておく必要があるでしょう。

 

 

 

 

 

 

憲法記念日に想うこと

70歳となった憲法

 憲法が70歳を迎えた―――そんな調子の報道が飛び交っています。「悲願」の改正か、「改悪」の阻止か。首相もついに2020年の憲法改正に言及しました。いずれにせよ、激しいトーンで論戦が繰り広げられています。しかし、「憲法」が政争の具となっている国は海外に例を見ません。それなのに、なぜ、日本の憲法は政争の具として利用されてきたのでしょうか。

 

 今日は5月3日、1947年に日本国憲法が施行されてからちょうど70年です。1947年、GHQの占領下にあった日本は、それまで持っていた「大日本帝国憲法」を捨て、民主的な現憲法を手に入れました。それからちょうど70年となる今日、各政党及び各マスメディアが一斉に憲法に対する見解を述べました。各メディアを探れば記事が見つかると思いますので、ぜひ読んでいただきたいところです。

 

 以降に綴るのは、「憲法とはなんであるか」ということです。これについては昨年の参議院選の総括記事の中でも触れましたが、今回はもう少し立ち入って考えてみたいと思います。

憲法とは何か? 

 憲法とは何か?という問いは、唯一無二の答えを選びません。憲法そのものをどう捉えるか、という点については、国民一人一人の意見に差が合って構わないと思っています。

 しかしながら、見方を変えて、「憲法は何のために存在しているか;憲法がない世界ではどういう不都合が生じるのか」ということを考えたとき、その答えは幾分か絞られるはずです。

 

 「国家の暴走を止めるために」存在しているのだ、という立場と「国のありていを他国に示すために」存在しているのだ、という立場に大きく分けられるのではないでしょうか。もう少し踏み込んで言うと、前者は憲法の規定のうち、「人権」に関わる規定を重視し、後者は「統治機構(司法・立法・行政の三権、そして安全保障)」に関わる規定を重視します。これは改憲・護憲の立場を問わず、各界の論客も身の回りの友人も総じて半々ぐらいに分かれるのではないかというふうに思います。それぞれの立場から考えてみましょう。

 

 「国家の暴走を止める」ということに主眼をおくならば、それは歴史的文脈から考えるべきでしょう。そこには、1789年の人権宣言以来、「市民革命」が背負ってきた絶対王政へのアンチテーゼがあります。国家を縄手人とし、われわれ国民が生まれながらにして持っている自由を守ろうという強い意志がみてとれます。

 

 「国のありていを他国に示す」ということは、明治初頭に日本の先人たちが命を懸けたことです。「近代国家」として欧米諸国から認めてもらうため、伊藤博文井上毅といった人物が憲法の起草にその生涯をかけました。他国を模倣した部分があるにせよ、自らの手で統治機構を定めるのだということに、近代国家の礎は存在しているのです。

 

 こうして見てもわかるように、一方の立場が正しく、片一方の立場が間違っているということはありません。私は、どちらかと言えば前者の立場に与しますが、統治機構の重要性もよく理解できます。憲法には「人権」と「統治機構」の記述があり、どちらに重きを置くかで保守・革新、護憲・改憲問わず憲法への見方が変わってくるだろうということを指摘しておきたいと思います。

 

 そのうえで、憲法には何を書き込むべきか、ということを考えてみましょう。この際、憲法は、普通の法律の上位に存在する「法」であるということを自覚せねばならないでしょう。法律より上の特別な存在であるからこそ、ときに政争の具になってきたのです。

 では、「憲法が特別な存在である」とはどういうことなのでしょうか。それは、「揺るがない」という点です。前の段落の内容と対応させれば、それぞれ、「権力者によって揺らぐことのない人権保障が達成されるから」、「近代国家として揺るがない体制であると誇示できるから」ということです。そうであるならば、「憲法改正」は体制を「揺るがす」ことになるのではないか。その懸念も理解できますが、「憲法改正」=「揺らぎ」だとは考えていません。大事なものを揺らぎのないモノにするために、細部を揺るがすことはありだろう、と思うからです。

 わかりにくいと思うので、例を挙げて説明します。後述しますが、私は憲法9条2項を削除すべきだという立場です。その立場をとる理由は、「具体的すぎるから」です。9条1項はパリ不戦条約に由来する「平和主義」の理念そのものです。ここが揺らぐようなことがあってはまずいでしょう。しかし、2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とするのは、〈「平和主義」という理念達成のために〉という視点で考えた時、選択肢が狭すぎないでしょうか。戦力の不保持という行き過ぎた具体性が、揺らがせてはならないはずの「平和主義」を逆に阻害することになるのではないでしょうか。それなりの裁量は必要なのです。

 もちろん、こういう論には課題もあります。本日付の毎日新聞が、現憲法において法律に委ねる点が多いことを懸念していました。とくに、地方自治について法律に委ねているのは問題ではないか、という点です。その通りでしょう。「地方自治制度」が憲法で規定されているに過ぎず、地方が国に対してどのような関係であるかについては、一切触れられていません。(「地方自治の本旨」というナゾの語があるに過ぎません。)揺らがないようにしなくてはいけないのは、「地方自治制度の存在」ではなく、「地方は国の言いなりにならない」という点だと考えるからです。

 

 以上の点から、「国民が合意できるもの」のみを憲法として残すべきだろう、と私は考えています。「揺るがない」=「すべての国民が合意できる」もののみを新たな憲法とすべきだと私は考えています。戦後「押し付け」論のロジックではなく、「憲法」そのものについてとらえる視点から、改憲論議を考えてみてはいかがでしょうか。

2017年の「危機管理」論❷

「0.1%」が起こってしまったときの日本はどうなる?

 これまで、朝鮮半島の現状について書いてきました、この文章で本当に書きたいのはここからの話です。前半で、日本の中枢機能がマヒしてしまう確率は0.1%程度だろう、ということを書きました。その0.1パーセントが起こった時、日本はどうなるのでしょうか。結論から言うと、「危機」に襲われた日本は、あまりに脆弱なのではないか?ということです。

 危ない点が2つあります。1つは「一極集中」であり、もう1つが「情報爆発」です。順を追ってみていくことにしましょう。 

一極集中と情報爆発

 まず、一極集中の問題です。東京の、しかもごくごく限られた部分に政治経済の中心が存在しているということです。ワシントンとウォール街、北京と上海、キャンベラとシドニーなど。他の国は一極集中にならない国づくりになっている国も多いです。イギリス、フランス、韓国などは、日本と同様に「一極集中」が都市計画の問題となっています。一極集中は非常に効率的なのですが、そこがダメになってしまうと、その国の他の地域もすべて機能しなくなってしまうという問題点があります。東日本大震災の例でいえば、岩手県大槌町が役場の本部が津波に呑まれ、行政の機能を一時失うという事態に陥ったこともありました。「中枢」、人間の体でいえば「脳」がマヒしてしまうのは、やはり危機的なのです。

 東京には、政治、経済だけでなく、人口、教育、資源も大量に存在しています。映画「シン・ゴジラ」を観た方は共感していただけるかと思いますが、大都市TOKYOがやられるリスクはあまりにも大きいのです。

 

 次に、情報爆発です。これは、熊本地震の時に起こった通信における現象の通称です。2016年の熊本地震は、「スマホ大国」日本が受けた初めての大災害だったといえます。2011年の東日本大震災の時は、スマホ保有率はまだまだ低く、安否確認はインターネットと電話によって行われました。しかし、2016年の熊本地震のときは、TwitterやLINE、Facebookなどで画像を含む大量の情報データがやり取りされたのです。

 日本は、SMAP解散や、あけおめメールで回線がパンクするような国です。回線の不備を質したいのではありません。日本はそれだけ情報化している社会である、と自覚すべきなのです。

 これにより、復旧のための情報が正しく機能しないという可能性が非常に高くなっているといえます。

オリンピックとテロ~共謀罪は必要か?

 

 日本の危機管理における問題点について考えてきましたが、オリンピックとテロについても考えなければならないでしょう。ISは日本を標的にすることを明言していますし、水際対策も十分とは言えないからです。

 海外に行けば、手荷物検査は日常茶飯事です。街中のゴミ箱も金属製のもので、仮に爆発物が入れられていたとしても被害が最小限に抑えられるようになっています。

 その一方、日本の公共交通機関に手荷物検査はありませんし、爆発物等への準備も不十分と言えるでしょう。もちろん、そういった自由度の高さが日本の長所でもありますから、バランスは必要ですが、対応を練っていく必要があります。

 

 こうした現状において、海外の人がたくさんやって来るオリンピックは、海外の国際犯罪組織からも狙われやすいでしょう。国際犯罪組織法に促される形で、法整備が進められている「テロ等準備罪」、いわゆる「共謀罪」について一言述べておきたいと思います。

 水際対策が弱い日本においては、計画段階で処罰するのも方向性としては十分アリだと私は考えています。テロを防止するためには、水際対策をしっかりする、計画段階で処罰する、のどちらかなのですから。(現在議論されている条文については問題があると思っていますが、それについては今回の文章では触れません。)

危機管理論 

 

 朝鮮半島有事。ソウルが火の海になり、世界シェア50%であるサムスン半導体が消えるかもしれない。東京も攻撃され、数十万人の命が失われるかもしれない。2020年には、オリンピック開催中にテロが起きるかもしれない。

 そうしたリスクがぬぐえない中で、その時の被害をできる限り小さくするため、私たちは何をすべきなのでしょうか。一極集中という構造的問題、巨大情報網という社会的問題、さらに水際対策の不足という現状があります。それらを克服するために、対策をとり始めるべき最後のタイミングが今年2017年なのではないかと私は思います。

 今回の朝鮮半島の緊張をきっかけに、私たちも日本の危機管理論に積極的に関わっていくべきだと思います。

2017年の「危機管理」論❶

 

 

はじめに

 

 ミサイル。先制攻撃。そんな物騒な言葉が、メディアを賑わせています。朝鮮半島で戦争が起きるのではないか。それに日本も巻き込まれていくのではないか。SNSを中心に不安の声が多数挙がっています。

 今日は日本の危機管理について、考えてみたいと思います。昨日4月14日は、熊本地震の発生から、ちょうど一年となる日でした。その二日後に「本震」が来て、大混乱となったのも忘れられません。危機、ということでは、朝鮮問題と並んで、震災も考えなければならないテーマです。現代の日本はたくさんの「危機」に囲まれています。2020年に東京オリッピックを控えた今、「危機管理」についての意識を今一度高めていくべきではないでしょうか。そういった思いから、日本を取り囲む「危機」について書いていきます。

日本にミサイルは落ちるのか? 

 

 まずは、皆さんの最大の関心事である、「日本にミサイルは落ちるのか?」ということについて、私なりに考えていることを綴ってみます。

 結論から言って「どうなるかわからない」というのが本当のところですし、情報の大小こそあれ、これから起こることを正確に予測できている人はいないはずです。

 しかしながら、最悪のシナリオを考えることには意味があるはずです。起こり得る事態に備え、しかるべき人が対策をする、「その他大勢」である我々も心構えをする。最終的には、何も起こらないのだとしても、そこに価値を見出すべきだと私は思います。

 

 最悪の場合、日本に核が落ちてくることはありえます。可能性はゼロではありません。ただ、過去の経緯や現在のパワーバランスから考えて、その可能性は20%ぐらいだろう、というのが私の見立てです。日本に向けて核弾頭ミサイルが発射され、かつそれが東京に落下し、日本の中枢機能がマヒする確率となるとさらに低く、0.1パーセント程度でしょう。

 

 では、どのように事態は決着し、どういうケースにおいて上記の0.1パーセントが現実と化してしまうのでしょうか。考えてみましょう。

 まず、何も起きない、という可能性があります。確率としては、50%ぐらいでしょうか。中国やロシアが北朝鮮に対してうまく働きかけ、かつトランプ政権が抑制的に動いた場合です。しかし、こうした可能性が低くなっているのは、歴史的経緯を考えればわかります。2000年代から、北朝鮮は不穏な兆候を示してきました。それに対し他国は「経済制裁」という形で、六か国協議、安保理などの場で抗議の意を示してきました。

 その結果が現状なのだ、ということです。これまでのトランプ大統領の言動を見ていると、「オバマと同じ結論だけは避けねばならない」という使命感があるようにすら思えます。【オバマ前大統領が対話による解決を目指し、強い強い経済制裁を行っても、事態は一向に解決しなかったじゃないか、だったら、多少の犠牲が出ようとも短期間で結果をだすべきだ】というのがトランプ政権の方向性であると私は分析しています。よって、これまで通り経済制裁できりきりと北朝鮮をしめつけていく確率はそれほど高くないのです。(蛇足ですが、トランプ氏が北朝鮮と国交を結んでしまう、という可能性もこの50%の中にはあります。)

 

 残りの50パーセントのうち、残された可能性は大きく分けて2つあります。一つは金正恩総書記の暗殺です。可能性がないわけではありません。確率としては10%ぐらいでしょう。しかし、これは北朝鮮内部の大混乱・暴発を招く可能性があり、またそれ相応の時間もかかるため、アメリカが好んで選択するとは考えにくい面もあります。

 もう一つ(残り40%)は、米朝の衝突です。そして日本への被害によって分類した時、大きく分けて4つの状況が考えられるでしょう。

米朝の一発ずつの攻撃で事態が膠着化する(日本には影響なし)

 もしくは、

 朝鮮半島有事、すなわち韓国と北朝鮮の衝突(日本には影響なし)   30%

②米軍への報復射撃、あるいは、米軍を後方支援した日本への報復射撃で、沖縄にある基地に報復射撃(沖縄のみが被害を受ける) 10%

北朝鮮ICBMなどをアメリカに向けて発射するも、失敗し日本の領域内に落下(日本のどこかが被害を受ける)7%

集団的自衛権の発動に伴う参戦により、日本そのものが標的になる 3%

 そのうち、日本全体がマヒするような攻撃が起こるのは0.1%

 

という感じでしょうか。数字に根拠はありませんが、現状の国際情勢を見ているとこのぐらいのパターンがありえそうです。

 

 ここで最後に確認しておきたいのは、北朝鮮が日本を特別に狙う理由はほとんどないということです。北朝鮮の最大の関心事は韓国であり、韓国のバックにいる大国アメリカなのです。日本にエネルギーを割く余裕はほとんどないでしょう。

 最初に述べたように、「どうなるかまったくわからない」というのが識者も含めた国民の本音です。しかし、起きうるパターンを推測することはできます。「戦争になる!」とメディアに踊らされることなく、起きうるパターンをすべて頭に入れておいたうえで、冷静に事態をみつめることが大切です。

 

 朝鮮半島の状況について書くだけでこれほど長くなってしまったので、危機管理については、また後半で書きたいと思います。

(後半「0.1パーセントが実現してしまったときの日本は?」に続く) 

2016年から2017年へ――転換期としての2010年代――

 

 カテゴライズする便利さとカテゴライズする危うさの淵に我々は立っているのだということを、今、我々は噛みしめなければならない。ロゴス(論理)とパトス(感情)、あるいはtruthとpost-truth、あるいはエリートと民衆というような対立軸を作って、語る、正確には語りたがる。わかりやすいから、「分ける」のだ。わけて、「あれかこれか」で判断するのだ。

 この西洋的な価値観こそ、今最も揺さぶられているものだと僕は今考えている。現代にいたるまでの学問の底流には、「自由」のユニバーサリズムがあって、「正義」のヒューマニズムがあった。だけれども、それが2016年から2017年にかけて、根本から揺らいでいるのだ。

 

 「絶対的な正義などこの世に存在しないんだよ。」

 これはドラマ「相棒」で語られた、岸部一徳演じる小野田官房長のセリフだ。いまから綴ることはこの言葉に象徴される。

 近代の学問は、絶対的な普遍性や唯一の正義を追い求めてきた。300年前にニュートンがみつけた正しさが、いまだにauのCMでオマージュされる時代である。正しさへの畏敬の念は異常なほどだ。

 しかし、これから台頭してくるのはそれとは真逆の流れである。「対立するもののちょうど間にある『何か』こそが答えである」ということだ。そこに特定の価値観は存在しない。現在の学問の場でそんなことをいうと、「答えの放棄」だ、「思考の停止」だと罵倒されるか、あるいは嘲笑される。僕が抱く違和感はそこにある。

 例えば、さっきまで寝ようか寝まいか午前3時過ぎまで迷っていた。現在の価値観では、学問では、その結果は「寝た」か「寝なかった」か、どちらかの言葉で記述されるだけである。もう少し頑張って「寝ちゃった」と表現したところで、そこに「迷い」があったかどうかまでは汲み取れない。さらに、仮に「寝た」ところで、どこからが「寝た」ことになるのか、目をつむった瞬間なのか、あるいは、意識を失った瞬間なのか、あまりに曖昧である。迷いや揺らぎのようなものを言葉が掬い取ってくれない。そこに絶対的な普遍性は存在しない。

 世の中には、「お餅食べたい!」と11月あたりから熱望している食いしん坊もいれば、「別に餅になんて好きじゃねーけど、雑煮の中に入ってたから食ったわ」と不機嫌に語る天邪鬼もいる。どちらも「餅を食べた人」とカテゴライズされて一緒くたに扱われるのだ。その違和感のようなものがここ数年あたりからあらゆる世界に存在していて、それが次の世代へと社会を変革する原動力になるんじゃないだろうか、と僕は考えている。

 

 同じ流れで2016年を振り返る。2016年は「正しさ」が問われた年だったのではないか。「自由」とか「グローバリズム」とか、あるいは人と「協力」することとか。そういう「正しい」とされてきたことに疑問符が付いた一年だったんじゃないだろうか。

 不倫や薬物だって、そうだ。あれは二つの正しさが問われた問題だ。第一に、ベッキーのような清純派の人間が、あるいは清原のような朴訥な人間が「悪い」ことをする。でも不倫が悪いのはなぜだ?賭博や薬物が悪とされるのはそもそもなぜなんだ?人に迷惑をかける不倫が罪ではなく、自分が堕ちてゆくだけの薬物・賭博が禁止されているのはどうして?そんなことを考えさせられる。

 第二に、それを楽しむ背徳感、報じるメディアの正しさも問われた。ベッキーのLINE流出したよ、ASKAのタクシー映像流出したよ、それは本当に「正」や「善」なのか?「人の不幸は蜜の味」すなわち「快」なだけではないのか?正しい事実を伝えることは常に「正しい」のか?表現の自由を叫びながら、そこに疑問符が付くような報道をしたマスメディアについても、より一層厳しい目が向けられている。

 

 SMAPの解散に関して「正しさ」は何なんだろうか?感情の面から考えても、「見せかけの仲良しスマップなんか見たくない」という意見もあれば、シンプル に「さみしいから5人そろった姿を見ていたい」という声もあるだろう。あるいは、論理的な視点から、「経済的に損だから続けるべきだ」とも言える。

 そしてもっと真剣に考えなくちゃいけないのは、ファン以外の多くの人は、僕をふくめて、「あら、もったいない(でも、あたしには知ったこっちゃない)」と松居一代ぐらいのテンションで騒動を見ているに過ぎない、ということだ。続けるべき、やめるべき、ではなくて、その間に世の中の多数派は存在している。必死でもないけど、無関心でもない、そんなサイレントマジョリティをどう表現するかがこれからの課題だ。

 

 サイレントマジョリティというワードが出てきたので、欅坂のサイレントマジョリティについても触れておくことにする。まず欅坂46全体が醸し出す「アイドルらしくなさ」はこの文章のテーマにも沿う。アイドルらしくないアイドルとしての揺らぎがこの時代に受け入れられているのだろうと思う。そして、なにより楽曲「サイレントマジョリティ」の構図に触れておかねばならない。秋元康という天才に支配された彼女らが「大人たちに支配されるな」と謳っているのだ。この矛盾はすがすがしい。彼女らの「支配されているけれどもすべて支配されているわけではない」、あるいは作詞家秋元康の「すべては支配できないし、支配したくない」という思いがにじみ出ているように感じる。ここにも揺らぎがある。

 

 2016年のヒットを振り返る。『前前前世』は、語呂の勝利なのか?それとも、タイアップの勝利なのか?『シンゴジラ』は特撮なのか?社会派エンターテイメントなのか?PPAPだって、結局よくわからないけどあれだけヒットしたわけだし、パーフェクトヒューマンだって、星野源だって、ヒットしたものすべてがふわふわしていた。カテゴライズしにくいモノばかりだ。無理やりカテゴライズしても良いのだろうけれど、もうよいのではないだろうか?

 

 政治に目を向ければ、トランプもEU離脱も「右か左か」の2択を強いられている人たちの反逆のような気がしている。少なくともそういう分析が多数を占めている。小池百合子も、フィリピンのドゥテルテも、その流れの中で生まれてきたリーダーだ。「選びたくない」人たちから選ばれたリーダーが今世界の中心にいる。「選択強制社会」から地球が脱走しようとしているのだ。

 人々は、選ぶことを能動的にやめる。能動的に、というのが大事だ。選ぶことをやめることは、考えを停止することだ。余計な価値観やイデオロギーから解放され、最も合理的な選択肢を選ぶ。言ってみれば、能動的な「即レス」だ。だから、心地よくわかりやすい言葉を並べて、合理的なメニューを提示できる人間が勝つ。トランプや橋下徹が強いのはそこだ。だから、小難しい理論を並べても無駄だ。橋下徹ツイッターで自称インテリと自称人権派を徹底的にたたいているのも頷ける。

 

 即レス社会においては、SNSが大流行する。ツイッターでリプを送りあい、LINEでスタンプを送りあう。ことの果てには、現実を言葉にするのが面倒くさいから、すなわち、目の前の現実をカテゴライズするのが面倒くさいから、InstagramやSNOWが流行るわけだ。SNOWに至っては、現実をゆがめる楽しさまで僕たちに教えてくれている。

 別にこうしたメディアを批判しているわけじゃない。SNOWは人間を相対化させるものでしょ、すごいアプリだ。犬になれる、顔がゆがむ、顔が交換される。ヒューマニズム=人間中心主義の逆だ。人間に対するチャレンジだ。

 VRだってそう、人間の感覚器官が逆手に取られているのだから。夏には、ポケモンGOも大流行した。人間世界に存在しないものを人間が熱狂的に追い求めるわけだ。ツイッターで毎回大騒ぎするコミケも同じく。二次元と三次元の垣根がどんどんどんどんなくなっていく社会だ。

 おそ松くんは、同性愛の問題から出発しているだろうし、ユーリオンアイスも羽生やプルシェンコの活躍なくしては生まれなかっただろう。現実世界を下地として、人間は二次元の世界に陶酔する。

 スマホゲームにおける課金も同じ。2次元と3次元の境目は消えつつある。絶対的に正しいと信じられてきた3次元の社会すら、感覚的にはもはや正しいのかどうかわからなくなってきているのではないだろうか。

 

 人間に対する正しさの挑戦ということを考えたとき、真っ先に思いつくのは、――『進撃の巨人』ではなくて――人工知能AIだ。これが人間にとって一番の脅威になりうる。近所のスーパーのレジが自動化されたり、自動運転の車が爆発的に増えたりしている。囲碁界の世界トッププロがAI『アルファ碁』に敗れるなんていうニュースもあった。

 きっと核や原発と同じように、AIも現状維持の暴力と、革新の乱用の中で、期待と不安が語られていくのだと思う。産業革命のときにラッダイト運動が起こったように、人間は機会に対して牙をむくかもしれない。そのときに我々がよりどころにする「正しさ」とはなんだろうか?

 

 例えば、生まれた瞬間に、この地球上でもっともふさわしい結婚相手がDNAをもとに導き出される。100年後にはAIがそんなことをやってのけているかもしれない。職業も進路も部活動も何もかも「この人はこう生きるべきだ」ということが、生まれてすぐ、データとして導き出される。そんな世界ってどうなんだろうか?それが嫌であるなら、その事態を回避するために、我々が学ばなくちゃいけない倫理って何なんだろうか?

 

 今、我々は「正しさ」とは何か?を考えさせられる時期に来ている。そして同時に、高速の資本主義社会の中で、能動的に考えることをやめている。答えがあまりに曖昧だからだ。非合理的な部分がこの世の中にはたくさんあるからこそ、現在では合理性を求める潮流にあるのだろうし、基本的に僕もその流れに与する人間だと思っている。

 しかし、そう遠くない将来、「合理性の限界」にぶつかりうることを我々は想定しなくてはいけない。いつか、また価値観が必要となる時代がやってくる。それは50年後なのか、100年後なのか、分からないけれど。

 未来の人間が、歴史を遡り「価値観」のあった時代を探したとき、2010年代・2020年代にぶつかるだろう。2010年代を振り返り、彼らは何を思うのか。そこに2010年代の意義があるのではないだろうか。

仕事はそこにあるか――自由貿易とAIの波のなかで

トランプ氏の就任演説

 昨日、トランプ氏がアメリカ合衆国大統領に就任しました。就任演説で語られたのは、確かな「価値観」だと私は感じています。ブッシュには「民主主義の敷衍」という価値観が、オバマには「マイノリティへの寛容」という価値観が、それぞれ確かに存在していました。それに対し、経済の再生を訴えるトランプ氏の政策はビジョンがない、価値観がない、とさんざん叩かれてきました。

 しかし、昨日未明に行われた演説では、氏の確かな価値観が「言葉」として示されていました。それは「人民のための政治」ということであり「民主主義の原点に立ち帰る」ということでした。ポピュリズムと揶揄されようが、アメリカを良くするために、行動の時代を突き進むのだ、という氏の揺るぎない決意が改めて示されたものだったように思います。(トランプ氏のこの演説について様々な評がなされていますが、トランプ氏本人としては「せっかくの就任演説だからきれいな言葉を載せてみせよう」ぐらいの感覚しか持っていないのではないかと思っています。逆に言えば、オバマクリントンの演説は素晴らしいですが、さらっと言葉でカモフラージュしている部分も多いということです。)

 私個人としては、こうした演説は原文で読んでいただきたい、というのが率直な気持ちです。日本人識者の「私情」がねじ込まれた和訳は――それはそれで意味があるかもしれないけれど――氏の思いを理解していることにならないと思うのです。

トランプ氏の就任演説 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170121-38702737-bbc-int

オバマ氏の就任演説

http://english-learninghelp.com/obama_president_speech/

失業の構造

 

 さて今日、考えたいのは「職」についてです。アンチグローバリズムとも呼ばれる「保護主義」の流れが昨年から盛り上がってきているのはなぜなのでしょう。あるいは、AIの台頭によって、わたしたちの「職」はどのように変化していくのでしょうか。先進国と呼ばれる国々における「失業」の構造について、今日は考えてみたいと思います。

 まず、失業について考える前に、ここでいう先進国とは何か、ということについて触れておきたいと思います。実際、先進国・後進国という表現には若干の違和感がありますし、developed/developing countriesと表現してみても、「発展し終えた・発展している」とは何なのか、どの程度栄えていれば先進国なのか、よくわからなくなります。ということで、今回の投稿の中で、先進国と呼ぶのはOECDに加盟している32か国に限定して話を進めていくこととします。

 こうした前提のもと、以下では、失業という問題について2つの点からアプローチしていきたいと思います。一点目は、自由貿易に伴う国内分業の限界という視点、二点目は、高度の情報化に伴うAIの脅威という視点です。順に見ていくことにしましょう。

自由貿易は悪か?

 

 今、戦後グローバリズムの流れが、試練の時を迎えています。ブレトン=ウッズ体制、IMFGATT体制に始まり、戦後世界のリーダーたちが追い求めてきた「自由貿易」という理想が、過渡期を迎えているのです。

 そもそも、なぜ、我々は自由貿易を志向するのでしょうか?それ以前に、「自由貿易」とは何でしょうか?

これを考えるためには、18世紀のアダムスミス、19世紀のリカードの考え方から振り返る必要があります。18世紀のアダムスミスは、関税を中心とする保護貿易を目指す重商主義を批判しました。そして、関税を含む国家の介入を排し、自由に貿易を展開することで経済が発展・向上すると指摘しました。19世紀のリカードは、比較生産費説を説きました。比較生産費説とは、比較優位にある国(効率的に生産できる国)がその製品に特化して生産活動を行うこと、そしてその生産した商品を自由貿易で交換することによって、経済が発展していくのだ、という説です。

こうした中で、戦後は経済統合の歴史が進められてきました。ブロック経済保護主義)が第二次大戦を引き起こした一因となったという反省を受け、経済的に相互依存している状態をつくれば、戦争も起きにくいだろう、ということで、自由貿易が進められたのです。ブロック経済のキモであった「関税」を取り除くことが戦後の最大の課題でした。GATT以来の戦後国際経済は、関税撤廃の歴史でもあります。現在はWTOの主導の下、世界的な自由貿易の流れが進められています。また、EU内において関税が廃止されているだけではなく、NATONAFTATPPといった地域的な関税協定も先進国間で数多く結ばれてきました。

 

 しかし、こうした比較生産費説・自由貿易には大きな欠点があると言われています。国内分業が許されなくなる、という点です。リカードの比較生産費説では、ある国はある製品の生産に特化することが前提となっています。しかしながら、その国のすべての人間がある産業に特化するというのはかなり非現実的です。よって、無理に分業を推し進めてしまうと、「その産業で働きたい!」と思う人以外は働かないこととなり、かえって失業者が増加してしまうのです。

 さらに、先進国では、高い人件費も失業原因の一つとなっています。MUFGによる「アジア各国の一般工の米ドル建て月額賃金の比較」をみると、2015年、オーストラリアの人件費は3508米ドル、横浜の人件費は2588米ドルであるのに対し、マニラの人件費は317米ドル、ハノイの人件費は181米ドルです。企業としては、先進国で生産するよりも圧倒的に低コストに抑えられるので、発展途上国で製造するという選択をとるのです。ですから、先進国では求人数が減り、失業数が増えるのです。

実際、アメリカも自由貿易化の影響を大きく受けてきました。日本との自由貿易NAFTAでの関税低減により、アメリカ北西部の自動車産業が衰退したことには触れておかなければならないでしょう。以下は4年前のウォールストリートジャーナルの記事ですが、ミシガン州デトロイトの惨状が明らかになっています。(こうした地域の人々が冒頭で触れたトランプ演説におけるforgotten men and womenなのです。実際に先日の大統領選でも民主党有利と思われていたミシガン州でトランプ氏が勝利したことは大きな衝撃として日本でも伝えられました。)

http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304250704579098834091888494?mod=WSJJP_hpp_MIDDLENexttoWhatsNewsFirst

 こうしたミシガンの衰退と軌を一にするように、アメリカ自動車製造業のビッグスリーリーマンショック後の2009年に次々と倒れました。自由貿易と高い人件費によって先進国の産業が衰退した(=雇用が失われた)例の一つと言えるのではないでしょうか。自由貿易と雇用に関する議論は、もっと奥が深いものなので、またあとで筆を改めることにしようと思います。

AIの発展の先に  

 先進諸国のもう一つの側面、「高度な科学技術」という点から見ていきたいと思います。ブルーワーカ―・ホワイトワーカーという職種の区分けで語られることが多いですが、今日はそれよりももっとシンプルに考えていきたいと思います。

 

 「技術進歩」とは、言い換えれば人間と機械の闘争である。そんな見方も可能であると私は思っています。産業革命の際、イギリスの繊維工業者たちは新しく導入された機械を壊す運動(ラッダイト運動)を行いました。一番わかりやすいのはラッダイト運動でしょうが、インターネットが導入されたときも、少なからず抵抗はありました。なぜ、人間は抵抗するのでしょうか。それは、仕事がなくなるからです。産業革命によって紡績はすべて機械がやってくれるようになりました。人々の暮らしは便利になった一方で、紡績業に従事していた人々の職は奪われる結果となったのです。

 

 まず、製造業はこの機械化の波の影響を強く受けていると言えます。産業革命以来、最初に新技術の導入が進められてきたのはいつも製造業です。一連の規則的な作業は機械化されやすく、トヨタ自動車などでは大掛かりな機械を次々と導入しコスト削減を図っています。

 同時に、今後はAIの台頭により、製造業以外のフィールドでもあらゆる職が自動化されていくことが明らかになっています。

https://www.nri.com/jp/news/2015/151202_1.aspx

2015年末に野村総研が発表したこのデータでは、現在行われている仕事の49%がAIによって10~20年後までに代替可能になるということが示されています。自動運転然り、スーパーのレジの自動化然りというところですが、便利になると同時に、現在そこで働いている人の職が奪われるということも忘れてはなりません。

先進国の仕事のこれから

 

 先進国における失業、職業のこれからを考えていくと、そこには無秩序な自由貿易への懸念と、自動化への懸念に直面することになると思います。

 そこで必要になるのは、どこまで自由貿易を進めるのか、あるいはどこまで機械に頼るのか、というバランス感覚であり、そのバランス感覚を兼ね備えた新しいシステムを模索する独創性である、ということ。これが、不確実性にまみれた2017年において考えられる、精いっぱいの未来予想図なのではないでしょうか。

 今回は概論的なもので終始してしまったので、落ち着いたらそれぞれ論点についてまた筆を改めて書きたいと思います。