青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

仕事はそこにあるか――自由貿易とAIの波のなかで

トランプ氏の就任演説

 昨日、トランプ氏がアメリカ合衆国大統領に就任しました。就任演説で語られたのは、確かな「価値観」だと私は感じています。ブッシュには「民主主義の敷衍」という価値観が、オバマには「マイノリティへの寛容」という価値観が、それぞれ確かに存在していました。それに対し、経済の再生を訴えるトランプ氏の政策はビジョンがない、価値観がない、とさんざん叩かれてきました。

 しかし、昨日未明に行われた演説では、氏の確かな価値観が「言葉」として示されていました。それは「人民のための政治」ということであり「民主主義の原点に立ち帰る」ということでした。ポピュリズムと揶揄されようが、アメリカを良くするために、行動の時代を突き進むのだ、という氏の揺るぎない決意が改めて示されたものだったように思います。(トランプ氏のこの演説について様々な評がなされていますが、トランプ氏本人としては「せっかくの就任演説だからきれいな言葉を載せてみせよう」ぐらいの感覚しか持っていないのではないかと思っています。逆に言えば、オバマクリントンの演説は素晴らしいですが、さらっと言葉でカモフラージュしている部分も多いということです。)

 私個人としては、こうした演説は原文で読んでいただきたい、というのが率直な気持ちです。日本人識者の「私情」がねじ込まれた和訳は――それはそれで意味があるかもしれないけれど――氏の思いを理解していることにならないと思うのです。

トランプ氏の就任演説 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170121-38702737-bbc-int

オバマ氏の就任演説

http://english-learninghelp.com/obama_president_speech/

失業の構造

 

 さて今日、考えたいのは「職」についてです。アンチグローバリズムとも呼ばれる「保護主義」の流れが昨年から盛り上がってきているのはなぜなのでしょう。あるいは、AIの台頭によって、わたしたちの「職」はどのように変化していくのでしょうか。先進国と呼ばれる国々における「失業」の構造について、今日は考えてみたいと思います。

 まず、失業について考える前に、ここでいう先進国とは何か、ということについて触れておきたいと思います。実際、先進国・後進国という表現には若干の違和感がありますし、developed/developing countriesと表現してみても、「発展し終えた・発展している」とは何なのか、どの程度栄えていれば先進国なのか、よくわからなくなります。ということで、今回の投稿の中で、先進国と呼ぶのはOECDに加盟している32か国に限定して話を進めていくこととします。

 こうした前提のもと、以下では、失業という問題について2つの点からアプローチしていきたいと思います。一点目は、自由貿易に伴う国内分業の限界という視点、二点目は、高度の情報化に伴うAIの脅威という視点です。順に見ていくことにしましょう。

自由貿易は悪か?

 

 今、戦後グローバリズムの流れが、試練の時を迎えています。ブレトン=ウッズ体制、IMFGATT体制に始まり、戦後世界のリーダーたちが追い求めてきた「自由貿易」という理想が、過渡期を迎えているのです。

 そもそも、なぜ、我々は自由貿易を志向するのでしょうか?それ以前に、「自由貿易」とは何でしょうか?

これを考えるためには、18世紀のアダムスミス、19世紀のリカードの考え方から振り返る必要があります。18世紀のアダムスミスは、関税を中心とする保護貿易を目指す重商主義を批判しました。そして、関税を含む国家の介入を排し、自由に貿易を展開することで経済が発展・向上すると指摘しました。19世紀のリカードは、比較生産費説を説きました。比較生産費説とは、比較優位にある国(効率的に生産できる国)がその製品に特化して生産活動を行うこと、そしてその生産した商品を自由貿易で交換することによって、経済が発展していくのだ、という説です。

こうした中で、戦後は経済統合の歴史が進められてきました。ブロック経済保護主義)が第二次大戦を引き起こした一因となったという反省を受け、経済的に相互依存している状態をつくれば、戦争も起きにくいだろう、ということで、自由貿易が進められたのです。ブロック経済のキモであった「関税」を取り除くことが戦後の最大の課題でした。GATT以来の戦後国際経済は、関税撤廃の歴史でもあります。現在はWTOの主導の下、世界的な自由貿易の流れが進められています。また、EU内において関税が廃止されているだけではなく、NATONAFTATPPといった地域的な関税協定も先進国間で数多く結ばれてきました。

 

 しかし、こうした比較生産費説・自由貿易には大きな欠点があると言われています。国内分業が許されなくなる、という点です。リカードの比較生産費説では、ある国はある製品の生産に特化することが前提となっています。しかしながら、その国のすべての人間がある産業に特化するというのはかなり非現実的です。よって、無理に分業を推し進めてしまうと、「その産業で働きたい!」と思う人以外は働かないこととなり、かえって失業者が増加してしまうのです。

 さらに、先進国では、高い人件費も失業原因の一つとなっています。MUFGによる「アジア各国の一般工の米ドル建て月額賃金の比較」をみると、2015年、オーストラリアの人件費は3508米ドル、横浜の人件費は2588米ドルであるのに対し、マニラの人件費は317米ドル、ハノイの人件費は181米ドルです。企業としては、先進国で生産するよりも圧倒的に低コストに抑えられるので、発展途上国で製造するという選択をとるのです。ですから、先進国では求人数が減り、失業数が増えるのです。

実際、アメリカも自由貿易化の影響を大きく受けてきました。日本との自由貿易NAFTAでの関税低減により、アメリカ北西部の自動車産業が衰退したことには触れておかなければならないでしょう。以下は4年前のウォールストリートジャーナルの記事ですが、ミシガン州デトロイトの惨状が明らかになっています。(こうした地域の人々が冒頭で触れたトランプ演説におけるforgotten men and womenなのです。実際に先日の大統領選でも民主党有利と思われていたミシガン州でトランプ氏が勝利したことは大きな衝撃として日本でも伝えられました。)

http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304250704579098834091888494?mod=WSJJP_hpp_MIDDLENexttoWhatsNewsFirst

 こうしたミシガンの衰退と軌を一にするように、アメリカ自動車製造業のビッグスリーリーマンショック後の2009年に次々と倒れました。自由貿易と高い人件費によって先進国の産業が衰退した(=雇用が失われた)例の一つと言えるのではないでしょうか。自由貿易と雇用に関する議論は、もっと奥が深いものなので、またあとで筆を改めることにしようと思います。

AIの発展の先に  

 先進諸国のもう一つの側面、「高度な科学技術」という点から見ていきたいと思います。ブルーワーカ―・ホワイトワーカーという職種の区分けで語られることが多いですが、今日はそれよりももっとシンプルに考えていきたいと思います。

 

 「技術進歩」とは、言い換えれば人間と機械の闘争である。そんな見方も可能であると私は思っています。産業革命の際、イギリスの繊維工業者たちは新しく導入された機械を壊す運動(ラッダイト運動)を行いました。一番わかりやすいのはラッダイト運動でしょうが、インターネットが導入されたときも、少なからず抵抗はありました。なぜ、人間は抵抗するのでしょうか。それは、仕事がなくなるからです。産業革命によって紡績はすべて機械がやってくれるようになりました。人々の暮らしは便利になった一方で、紡績業に従事していた人々の職は奪われる結果となったのです。

 

 まず、製造業はこの機械化の波の影響を強く受けていると言えます。産業革命以来、最初に新技術の導入が進められてきたのはいつも製造業です。一連の規則的な作業は機械化されやすく、トヨタ自動車などでは大掛かりな機械を次々と導入しコスト削減を図っています。

 同時に、今後はAIの台頭により、製造業以外のフィールドでもあらゆる職が自動化されていくことが明らかになっています。

https://www.nri.com/jp/news/2015/151202_1.aspx

2015年末に野村総研が発表したこのデータでは、現在行われている仕事の49%がAIによって10~20年後までに代替可能になるということが示されています。自動運転然り、スーパーのレジの自動化然りというところですが、便利になると同時に、現在そこで働いている人の職が奪われるということも忘れてはなりません。

先進国の仕事のこれから

 

 先進国における失業、職業のこれからを考えていくと、そこには無秩序な自由貿易への懸念と、自動化への懸念に直面することになると思います。

 そこで必要になるのは、どこまで自由貿易を進めるのか、あるいはどこまで機械に頼るのか、というバランス感覚であり、そのバランス感覚を兼ね備えた新しいシステムを模索する独創性である、ということ。これが、不確実性にまみれた2017年において考えられる、精いっぱいの未来予想図なのではないでしょうか。

 今回は概論的なもので終始してしまったので、落ち着いたらそれぞれ論点についてまた筆を改めて書きたいと思います。

トランプ大統領の誕生に寄せて②~メディアと市民のズレ~

ノーベンバー・サプライズがもたらすもの

 今日も、全米各地でデモが起こっています。”No my president!”の掛け声とともに、大勢の人が街を練り歩く姿をみて、選挙結果の衝撃の大きさを改めて感じているところです。選挙戦最終盤にも何が起こるかわからない、という意味で使われている「オクトーバー・サプライズ」という言葉がありますが、今回の選挙結果はむしろ「ノーベンバー・サプライズ」というべきなのかもしれません。

 ノーベンバー・サプライズは決して一過性のものではないと私は捉えています。というのも、トランプが火をつけた「本音」は、アメリカの歴史、いや、世界の歴史に横たわる非常に根深いものだからです。前回の投稿では、南部の人たちとラストベルト周辺の人たちに焦点を当て、トランプ大統領当選の理由を探りました。前回の投稿でも述べた通り、アメリカの分裂はA対Bという形で表せないものとなっています。骨でいえば粉砕骨折のような状況です。今後政権が移行した後も、様々な形で、この亀裂は顕在化してくるだろうと思います。

 今回は、もう一つの視点、なぜメディアは「トランプ勝利」を見抜けなかったのか、ということについて考えてみたいと思います。

 

「隠れトランプ支持者」はいない?

 

 『隠れトランプ支持者』を見抜くことができなかった―――――そうメディアは口を揃えています。トランプ支持者であることを公言しにくい状況だったのだ、それは女性差別発言をはじめとする差別発言を連発したトランプ氏のせいだ、といった論調です。そもそも統計データのとり方が古いのではないか、とか、大手メディアに正直に答えるのが嫌になったのではないか、とか。

 私は「隠れトランプ支持者」はそれほど多くなかったのではないかと感じています。前回みた通り、ラストベルト地域におけるトランプ氏勝利の要因は沢山ありましたし、正確なデータに基づいて正しく分析していた人たちは接戦でトランプ氏が勝利することを予測できていた人たちもいます。それ以外の州ではほとんどの予想が当たっています。ですから、一概に「隠れトランプ支持者」によって予想が外れた、という風潮は少し違和感があるのです。

 問題はもっと深いところにあるのではないか。―――――上記のようなことを鑑みるに、私はそう考えています。メディアが「予想を外した」こと自体はそれほど大きな問題ではないでしょう。世論調査などは、時代の変化に合わせながらマイナーチェンジをしていけば良いだけの話です。私が看過できないのは、ハフィントンポストがトランプ氏をエンタメ欄で報じてきたことであり、CNNが「マトモなクリントンvsならず者のトランプ」の構図を選挙戦の最終盤まで崩さなかったことです。たしかに、各メディアで支持政党がはっきりしているのはアメリカ流の民主主義でもあると思います。しかし、〈支持する・支持しない〉の感覚が、あまりにも一般市民とかけ離れてはいなかったのか。それを垂れ流していた日本のメディア、そのズレを見抜けなかった我々一般市民も含めて、今一度「メディアと市民」の関係について、胸に手を当てて考えてみるべきだと思います。

 

気付けなかった「感覚のズレ」

 具体的に言えば、メディアの失敗は、トランプ氏の経済政策に対しまともに取り合えなかったことかと思います。法人税所得税の減税という政策は、非常に魅力的です。レガーノミクスを彷彿とさせる経済政策は、アメリカ国民の心をとらえたことでしょう。しかし、選挙中のメディアはと言えば、「なんかいろいろ言っているけどそんなの実現不可能だよね」程度の感覚で、トランプ氏の経済政策もサンダース氏の経済政策も見過ごしてきました。これが示しているのは、メディアの怠慢よりももっと根が深い、「感覚のズレ」です。

 アメリカメディアだってエゴで報道しているわけではないでしょう。世論調査の数字も謙虚に見てきたと思います。それでも「クリントン氏優位」の見方が動かなかったのは、メディアの中に白人の中~上位所得者層の声を代弁できる人があまりにも少なかったからでないでしょうか。本来権力に対して批判的であるべきメディアがエスタブリッシュメント化しているのです。だからこそエスタブリッシュメント=1%の象徴であったクリントン氏を支持したのだと思います。

 そんな彼らにとってトランプ氏の勝利は「見たくないもの」「知りたくないもの」です。実際に、アメリカメディアの関係者が「トランプが大統領になるはずない」と発言していたということも各種記事でさんざん言われています。「謙虚に」数字を見ていたつもりでも、どこかで「無意識のうちに」クリントン優位になるような見方をしてしまっていたのではないでしょうか。だからこそ、本当はそこまで隠れていなかったトランプ支持者に気付くことができず、「隠れトランプ支持者」が誕生してしまったのではないでしょうか。

 そうであるとすれば、「隠れトランプ支持者」の存在は、メディアにとって非常に、非常に、根の深い問題をはらんでいるといえるのではないでしょうか。

トランプ大統領の誕生に寄せて①~トランプ氏勝利の理由~

 昨日午後、「トランプ大統領」が誕生する見込みとなりました。この結果に驚いた方も多かったと思います。日本のテレビ局はこぞって驚きとともに大統領選の結果を伝えました。経済的にも大きな影響が出ています。日経平均株価も1000円以上値下がりし、また為替でも1ドル101円台まで円高が進みました。今日の株価は反発して1100円ほど値上がりし、まさに「乱高下」という状況です。

 「衝撃的」「まさか」と報じられるこの結果ですが、なぜその「まさか」が起きてしまったのでしょうか。あるいは、それを「まさか」に仕立て上げたものは何だったのでしょうか?今日は、詳しい分析が出ていない段階ではありますが、大統領選の結果について考えたことを書いてみたいと思います。

 

想定内の「想定外」

 トランプが勝つと思っていたか?と問われれば、私の答えはNOです。多くのメディアと同じく、最後はクリントンが勝つだろう、というのが私の予想でした。しかし、「想定外」が起こる可能性は十分にあると思っていました(無責任な言い方ですが)。そして「想定外」が起これば日本は混乱するだろうな、という考えも漠然ながら持っていました。

 というのも、アメリカメディア各社が行った直前の世論調査では、スイングステートでの支持が非常に拮抗していたからです。本当に最後の最後まで結果の読めない州が7~9州ありました。そこのほとんどをトランプ氏がとれば勝利もあり得る、いくつかの分析をみる限りトランプ氏勝利は捨てきれない、と考えていました。

 とは言え、比較的トランプ氏寄りの予測サイト(fivethirtyeight)でさえ、トランプ氏の勝利確率は30%程度でした。後述する「隠れトランプ支持者」の存在を織り込んで考えたとしても、その確率は50%を超えないだろう、というのが一般的な見方だったように思います。では、なぜトランプ氏は予想を上回る票を獲得できたのでしょうか。2つの観点から見てみたいと思います。

 
①レッドとブルーを超えてつながった人々 

 まず、トランプ氏の勝利を決定づけたフロリダ・ノースカロライナ両州についてみていきたいと思います。この二つの州はともにスイングステートと呼ばれる激戦州であり、前日までメディア各社の予想が割れていた地域です。これらの州でトランプ氏が勝てたのは何故かということを考える時、この両州の「メキシコに近い」という点を見逃すわけにはいきません。メキシコ不法移民による不安は全米に広がっていましたが、その中でもジョージア・サウスカロライナを含むこの地域では一層重大な問題として根付いていました。そこに現れたのがトランプ氏です。”Build the wall!”と叫びながら不法移民の排斥を訴えました。白人層はもちろん、合法的に入ってきた移民たちさえも、不法移民の被害者として悩んでいたわけですから、問題を解決してくれそうなトランプに期待したのです。だからこそ、トランプ氏は両州で激戦を制することができたのです。

 次に、「番狂わせ」となった本来ブルーステートの地域、ペンシルベニア・ミシガン・ウィスコンシンといったラストベルト地域について考えてみたいと思います。民主党の強力な地盤で、なぜトランプ氏は勝つことができたのでしょうか。考えられる理由は二つあると思います。一つ目は、天気です。都市部に多いとされる移民などの民主党支持者は、雨が降ると投票に行かなくなるとも言われています。一方、共和党支持者は義理堅く投票に赴くと一般的に言われています。そうした状況のなかでペンシルベニアやミシガンでは雨が降りました。雨の中投票所に並ぶミシガン州の人々の画像がツイッターにあげられていましたが、その中の多数がトランプ支持者だったということなのかもしれません。二つ目は、白人労働者の不満です。以前の投稿で、「プア・ホワイト」という表現を使ったと思うのですが、それは間違いでした。トランプを支持した層を年収別に調べてみると、年収500万円以下の層はヒラリー氏を支持している人の方が多くなっています。むしろトランプ支持の中心となったのは年収500万~1000万の白人労働者です。平均年収を上回る人々がなぜ苦しんでいるのでしょうか。それは、「以前より」「昔より」苦しくなっているからです。〈自分たちは一応高校教育や短期大学教育を受けて、まじめに働いている。それなのに、なぜニューヨークやワシントンの一部の人間だけしか裕福に暮らせないのか?NAFTAやなんやら知らないが、我々が続けてきた自動車産業はもう瀕死の状態だ!〉これがペンシルバニアやミシガン、ウィスコンシンの人々の本音です。怒りです。今朝方知りましたが、この8年間でこれらの州ではすべて共和党知事が誕生していたようです。もちろん、トランプがこの地域に力を注いで選挙運動を展開したことも功を奏しているとは思いますが、「NAFTA反対、所得税減税」を訴えるトランプ氏が勝利したのも頷ける背景が存在していた、というところではないでしょうか。

②分断された人々

 トランプ氏は決して保守的な政治家でない、と私は思っています。アメリカンファースト・孤立主義ではあるけれど、それは決して高齢者や女性やマイノリティを見殺しにするというのではありません。これまでの社会福祉政策を基本的には継続したうえで、その上に経済発展を描いていこうとしているのです。この点で従来の共和党の「小さな政府」型経済政策とは決定的に異なります。〈1%の「上」とそれに頼るしかなかった年収500万円以下の人々=有色人種と都市部中心のクリントン陣営〉対〈政治的に取り残されてきた(相対的な)「下」=白人中心のトランプ陣営〉。

 右・左や白人・有色人種、あるいは男・女といった区別を越えて、今回の選挙戦ではそのような構図にアメリカが分断されたのです。

 

 当然のことながら、年収500万円以下の人々が必ずしもクリントン氏を応援したわけではありません。クリントン氏支持に回らなかった人々の中には、バーニー・サンダース氏に熱狂した人々が含まれます。「1%の金持ちと99%の貧乏人」というのはサンダース氏が訴えた言葉ですが、この言葉に共感した人々は1%の代表であるクリントン氏が嫌いなのです。実際にミシガン・ウィスコンシン民主党予備選ではサンダース氏が勝利しています。サンダース氏が蒔いた種はいつか花を咲かせるかもしれませんが、今回の大統領選挙の結果にも影響を与えたといえるのではないでしょうか。

 こうした結果からもわかるように、「1%」の人々は、今回の選挙の結果を本当にショッキングなものとしてとらえているのだと思います。クリントン大統領の誕生を信じて疑わなかったNYやワシントン、カリフォルニアといった大都市部の人々です。ハリウッドスターたちも、レディー・ガガもマドンナも。オバマ夫妻も敗者の一人です。オバマ大統領にいたっては、投票日直前に「トランプほど大統領にふさわしくない人物はいない」と発言したほどで、全面的にクリントン氏を支持していましたから、ダメージは大きいでしょう。現状維持のエネルギーは変革のエネルギーの前に敗れました。

 さらに、共和党のエスタブリッシュメントホワイトハウスの中枢からは距離を置くこととなりそうです。ジェブ・ブッシュ氏や知日派として知られるアーミテージ氏などです。彼らはトランプになるくらいなら民主党を応援するとさえ言っていたグループであり、もう元には戻れないでしょう。共和党予備選でトランプ氏と戦ったテッド・クルーズ氏やマルコ・ルビオ氏といった2010年当選の改革組がこれからの新しい共和党を作っていくことになるでしょう。

 いずれにしても、様々な分裂がA対Bとくくれない形で発生しています。それがまさに2016年のアメリカを象徴しているのであり、多様性を求めたが故の21世紀型「Civil War」なのかもしれません。

 

「トランプ大統領の誕生に寄せて②」に続く

「お気持ち」表明の本当の意味

はじめに

 一か月以上に及び記事を更新できませんでしたが、ここからまた少しずつではありますが更新を続けていきたいと思います。

衝撃的な「生前退位」

 7月の半ば、衝撃的なニュースが飛び込んできました。今上天皇が「生前退位」の意向を示された、というニュースです。日本中が驚きました。

 世間の反応はというと、生前退位ってなんだ?とか、平成終わるじゃん!のような声が高まり、普段あまり耳にしない皇室のニュースにざわざわしていたような気がします。天皇の体調のことも心配しているけれど、それより「元号」のことが気になる、というのが本当のところではないのでしょうか。

 一時的に盛り上がったとはいえ、それからの一か月間は比較的落ち着いた形でその流れが進められてきました。そして8月8日、午後3時から「お気持ち」という形で、天皇のビデオメッセージが公表されました。国内外からの様々な反響はありましたが、実際は、リオオリンピックにかき消されそこまで大きな話題とはなりませんでした。

 そして9月5日、「特措法」による特例という形で生前退位を認めることが報道により明らかになりました。同時に皇室典範改正、女系・女性天皇問題など皇室に関わる問題が政治問題となってきています。以下では、今上天皇が描く「天皇像」を読み解きながら、その天皇像がもたらす功罪を検討してみたいと思います。

「お気持ち」表明全文を読んで―天皇とはどうあるべきか?

 天皇の「お気持ち」をすべて読むと、天皇陛下自身の価値観が少しずつ見えてきます。「天皇とは、どうあるべきか?」という深淵な問いに真摯に向き合い続けてきた天皇の苦悩が見えてきます。

 

『自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』

 この表現が、象徴天皇としての役目を定義した部分として語られています。天皇といえば、被災地などを訪問したり、式典でおことばを述べたりすることが役目だ、というイメージを抱く方も多いでしょう。しかし今上天皇は、こころのあり様をもって自らを定義づけたのです。

 憲法では国事「行為」を行うものとして定義づけられている「天皇」ですが、今回のお気持ち表明は、法による定義でないとはいえ、天皇自らが天皇を再定義したものと評価することもできるでしょう。

 そして、この定義は憲法における天皇をより進化させたものであると評価できるでしょう。外見的な行為だけでは足りず、内面的な心のあり様まで評価の対象となる、というものだからです。「象徴天皇というものは、存在それ自体が価値を持つものではない。国民の心に寄り添ってはじめて価値を持つのだ。」という天皇の理想と強い意志が垣間見えます。血統的にも道徳的にも「立派な」天皇というものを今上天皇は追い求めていると言えます。

 こうした「お気持ち」表明は、先の戦争に対する猛烈な反省を起点としていることも間違いありません。以下ではここまでの記述を歴史的な観点からさらに深く分析してみようと思います。

「人間である」ことの追求

 「お気持ち」から読み取れる事について偉そうに書いてみましたが、偉そうついでにさらに話を展開させてみたいと思います。

 

 今上天皇による「お気持ち」表明の背景にあるのは〈「人間」であることの追求〉であるように思います。日本の歴史を簡単に振り返りながら、「神」的な天皇から「人間」的な天皇への変動を振り返っていきましょう。

 日本の歴史の始まりといえば、神武天皇に始まる「古事記」や「天皇記」の世界です。この時代、天皇はまさに「神」でした。神の子孫が天皇であるという認識のもと、皇族による統治が進み始めるのです。聖徳太子天智天皇中大兄皇子)、天武天皇といった時代には、「皇族」であることが為政者の条件でした。

 その権威を外側から利用しようとした者たちがいます。藤原道長であり、平清盛であり、江戸幕府であり、明治政府です。藤原家や平家は、娘を天皇の后にして自らが天皇の外祖父となるという手法で権力を伸ばしました。江戸幕府も、17Cには「天皇の上に立つもの」と自らを位置付けていましたが、18C後半から19Cにかけては「天皇から統治を信託されたもの」として、天皇の権威を借りる形で政治を行いました。日本の歴史は「天皇の威を借る狐」たちによって動かされてきたといっても過言ではありません。

 大日本帝国憲法下の日本では、「万世一系ノ天皇」が「統治」することとなりました。戊辰戦争の「錦の御旗」や「王政復古」に象徴される通り、明治政府は自らの権力のために天皇を積極的に利用しました。

 そして時代は昭和へと下ります。戦前、軍部の青年将校たちが昭和天皇を「担いで」日本を第二次世界大戦へと導いたことはいうまでもありません。そして日本は戦争に敗れました。この結果、「天皇」像が大きく変わることとなります。1946年の元日に発表された昭和天皇による所謂「人間宣言」は、まさに「神」的な天皇の終わりと「人間」的な天皇の始まりを宣言したものでした。同時に世論は「神」が「政治化」することの怖さを痛感しました。昨今議論されている全体主義への忌避はここに起源を有します。

 改正された日本国憲法下では、天皇は「日本国民統合の象徴」になりました。天皇は人間であることを前提として、国民の象徴として国事行為を行うようになりました。憲法天皇は「国民」ではありませんが、「一人の人間」として社会の中に位置づけられたといえます。

 

 「神」による政治から「天皇(神)の威を借る狐」たちによる政治へ。その流れの中で「天皇(人間;国民)の威を借る民主制」が展開されたことは時代の要請だったのかもしれません。

 

 この「人間」としての天皇像が、まさに上で述べた「立派な」天皇像なのです。神ではなく、国民として生きることこそが、天皇の務めなのだ、という今上天皇の意思が伺えます。天災が起これば駆けつけて被災者を励ますこと。土葬から火葬へ切り替えるなど、歴代続いてきた慣習に拘りすぎないこと。テロが起これば、たとえ外国の出来事であろうと深い悲しみを示すこと。「日本国民統合の象徴」という半ば押し付けられた抽象的な存在を受け入れ、自分自身を「国民」「人間」に近づけようという姿が見て取れます。

 その意味で、逆らおうにも逆らい得ぬ高齢化は、「人間」であることの追求を阻むものだったといえます。現在の日本には、0歳の赤ちゃんから100歳を超える老人まで、1億2000万の国民がいます。彼らのあらゆる素晴らしさやあらゆる悲しみやあらゆる習慣を体現する「象徴」としての役割を、81歳の老爺(あえてここではこの表現を使います。)が背負っていくのは厳しすぎる、と今上天皇は判断したのです。摂政の可能性を否定したのも、他者に利用されることで「国民統合の象徴」から御簾の向こう側の「神」へと逆戻りしてしまうことを恐れたからではないでしょうか。

 

議論すべきことは何か?

 巷では様々な議論が展開されています。このケースを法的にどう処理すべきなのか、女性天皇も同時に認めるべきでないか、といった議論です。しかしながら、いずれの議論も、戦後70年来重ねられてきた議論ですが、一向に結論への道筋は見えてきません。

 

 今、議論すべきは「天皇にどこまで求めるべきか?」ということではないでしょうか。確かに、今上天皇は、国民の7割以上が支持するような「立派な」天皇像を築き上げました。しかしながら、20年あるいは100年先を見据えた場合、この今上天皇のレベルが高いハードルとなる可能性も否定できません。遠い将来、もし仮に血統的に天皇家の存続が危ぶまれ、かつ、天皇に高いレベルの国事行為が課されるような場合、天皇制自体の存続が難しくなるかもしれません。

 「多少国事行為の量や質が低下しようとも、天皇制を守っていくべきだ。国を動かすのは、国民から信託された三権だ。」という価値観と、「天皇という存在が形骸化し他者に利用されてしまわないように、ハイレベルの道徳的な国事行為を実行できる人物だけが天皇になるべきだ。その結果、天皇制が危機に陥ろうとも致し方ない」という価値観の衝突です。

 もちろん、今上天皇天皇制の危機を招こうとしているのではありませんが、将来的にはそのような展開もあり得るのです。私は、どちらかといえば、後者の価値観に与しますが、国民を巻き込んだ民主的な議論が待たれるところです。天皇が「日本国民統合の象徴」である限り、その存在がどうあるべきか?ということについては国民が決定すべきです。皇室典範の改正や女性天皇の容認などの問題も、こうした議論の中から結論が導かれるものと思われます。さらなる議論の中で、本質的な問題が検討されることを期待しています。

参院選総括② そもそも「憲法」って何だ?

憲法改正」へひた走る人々

 参議院選挙の結果を受けて、改憲の機運は高まりを見せています。安倍首相も12日の会見で憲法改正への意欲を示しました。

 懸念すべきは、「憲法改正」が目的化していることです。戦後のマッカーサー占領下で起草され制定された憲法は変えなければならない、という言質をしばしば耳にします。保守系団体「日本会議」の会長が13日に記者会見し、改憲を希望する旨を示したことは大きな話題となりました。

 自民党や、それを支援して改憲を後押しする勢力がベースにしているのが自民党憲法草案です。これは正直言って問題だらけです。この憲法草案をつくった当時の自民党総裁である谷垣幹事長は「エッジを効かせた」と発言し、現在の自民党議員も「たたき台」であり決定版ではないと述べています。それにも関わらず安倍首相はこれを「ベースにして」改憲論議を行うと述べました。彼らにとっては「憲法」の中身が問題なのではなく、「憲法改正」の事実が大事なのではないでしょうか。

 自民党憲法草案の問題点は後で指摘しますが、中身が雑であるという印象を受けます。本当に憲法改正が必要だと思うならば、国民の合意を得られるようにもう一度憲法草案を作成すべきです。

憲法を守れ」という言葉にすがる人たち

 改憲推進派にいろいろな問題はあるけれども、「憲法を守れ」と謳う護憲派の人々も相当見当違いのことを述べているような気がしています。

 「改憲阻止」で参議院選挙を戦ったことからもその戦略のまずさが分かります。特に民進党は「まず3分の2をとらせないこと。」という謎のキャッチフレーズで参院選を戦いました。経済で正面からぶつかり、その結果として3分の2を阻止した方が明らかに建設的であったにもかかわらず、です。憲法は確かに大切だけれども、現行憲法を必要以上に神格化してしまったために、「憲法を守れ」という言葉から離れられずにいるのです。

 改憲阻止は手段であって目的ではありません。改憲阻止という「手段」について主張するならば、国のグランドデザイン(目的)は明確でなければならないはずです。しかし、野党は国の基礎的な機能である経済のグランドデザインすら示すことができなかったのです。この点で、野党の「改憲阻止」はよくわからないのです。

 野党がすべきであるのは、まず、国のグランドデザインを大枠で決定することです。安全保障も経済も社会保障も統治機構改革も、すべて一度党内で議論の俎上に挙げるべきです。その上で、憲法は本当に変えなくてよいのか、絶対に守りたい条文は何なのか、少なくとも党内でコンセンサスを得るような努力をすべきです。改憲阻止を謳うのはそれからです。

素朴な憲法

 これまでみてきたように、改憲派護憲派も、本来あるべき憲法論議から離れたところで憲法を語っています。素朴な私の憲法論(大したものではありませんし、憲法学に特別依拠しているわけでもありません)を簡単にまとめたいと思います。

 

 憲法は「国や権力を縛るもの」である、という定義は揺るがすべきではないと思います。市民革命以降発達してきた「憲法」というものの根幹を成す部分であるからです。人権規定が一切ない憲法立法府や行政府の役割が一切明記されていない憲法。そんなものはもはや憲法ではありません。

 その前提に立ったうえで、憲法を再定義するならば、「最大公約数」「共通の理想」という言葉がしっくりくると思います。憲法とは、最大公約数です。憲法とは、共通の理想です。国民全員が納得できる最大公約数のルールだけが書き込まれた、共通の理想集であるべきです。その他の意見が割れるようなテーマに関しては法律で定めれば良いと思っています。憲法には国民全員が納得できることだけが書き込まれるべきです。

 その意味で、自民党憲法草案は非常に危険です。自民党憲法草案の中では、人権の制約概念として「公の秩序」という言葉が何度も登場します。人権の制約の程度は強かろうが弱かろうが政策レベルの話です。それを憲法で規定してしまうことの危険性を理解する必要があります。おおさか維新の会が示している憲法草案に関しても同様です。教育無償化を憲法に書き込んでしまうことで、のちの時代に変更が難しくなります。差別化を図って独自の政党カラーを出したいのは理解できるけれども、本当に変える必要がある条文は何なのか?あるいは、今の時代、そしてこれからの時代において普遍的な理想は何なのか?ということへの意識が薄いように感じられます。

 天皇の行為、三権の機能、自衛隊国防軍)の役割、あるいは教育の役割。憲法の段階では抽象的で構わないと思います。その代わり、国民全員が合意できるような条文にすることが重要です。

社会を知ることから始まる憲法論議

 参議院選挙を経て、憲法改正の論議に私たち国民も参加していくことになるでしょう。その際、社会を知ることが重要になってきます。それぞれの問題にどのような立場があり、どのような点で争っているかということを理解しなければ、憲法改正論議は進みません。ですから、国会議員の皆さんには、こういった整理から始めていただきたいと思っています。国民の側も、その論議にできる限りコミットしていくことが望まれます。

 例えば現行憲法の9条2項。自衛隊を戦力と見なさないことへの疑問は根強くあります。しかし、実際なされている議論は「変えるべきだ」「変えるべきじゃない」の水掛け論です。もうすこし国内の議論を整理してみると、自衛隊は必要ないとする立場、自衛隊は必要だが現行憲法を変える必要はないという立場、「自衛隊」を明記する形で憲法を改正するべきという立場、「国防軍」「自衛軍」を明記する形で憲法を改正するべきという立場があります。この4つの立場を考え、どうすれば折り合いをつけられるのか、ということを考えなければなりません。それぞれの立場からグランドデザインを語ってもらうこと、そして必要な場合には説得し納得してもらうこと。長い長いプロセスを経て合意を形成していかなければなりません。

 憲法改正には長い長い時間がかかると思います。「改正」「改正阻止」に躍起になっても意味はありません。それぞれの理想がどのように食い違っているのか?、そして、どうすれば国民全体のコンセンサスを得られるのか?ということ。まずじっくりと社会を見つめて、そこから考えていくべきです。これから始まる憲法論議は、21世紀における日本のあり方、あるいは世界のあり方を決めるものになります。将来に対する重い重い責任を噛みしめながら、その道を歩んでいかなければなりません。

 

参院選総括① すれちがい選挙の果てに

「歴史的選挙」の「つまらない結果」

 先日行われた参議院選挙において、与党が勝利しました。なんとも予想通りの結果で、(政治に「面白い」という言葉は相応しくないのかもしれないけれど)正直いって面白くない結果だったことは間違いありません。「歴史的」と言われた18歳選挙権でしたが、10代の投票率は全体より10%ほど低い45%にとどまりました。同時に、全体の投票率も、過去3番目に低かった前回より高いとはいえ、それに準ずる低さでした。

<参院選>選挙区投票率54.70% 過去4番目の低さ (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

 議席に関しても、2つの「歴史的」なことが起ころうとしていました。1つは、「改憲勢力による3分の2」でした。これに関しては今日のメインでもあるので後でじっくり書きたいと思います。もうひとつは、27年ぶりの「自民党単独過半数」でした。Twitterではトレンド入りもするなど、その可能性は十分にありましたが、結果的にはあと1議席という形で実現しませんでした。(その後、13日に平野達男参議院議員自民党に入党の方向を固め、27年ぶりの単独過半数が達成される見込みとなっています。)いずれにせよ、今一つ盛り上がりに欠ける選挙であったことは間違いありません。

憲法改正というウラの争点

 選挙が盛り上がりに欠けたのは、与野党双方の責任です。というのは、争点を設置した与党と、争点に乗らなかった野党、双方に非があるからです。

 安倍政権は、参議院選挙を迎えるにあたって、オモテの争点を経済、ウラの争点を憲法に設定しました。安倍政権の強みは経済であり、弱みは憲法問題に代表される民主手続きの履行だからです。有利な争点をオモテにおけること。これは政権与党の権力です。

 そのうえで、自民党が負けそうな東北や北海道に小泉進次郎衆議院議員を送り込み、必死の選挙運動を展開しました。明らかに優勢であったにもかかわらず、ここまで必死になったのは、与党側も「3分の2」を意識していたからでしょう。隠したのは確かに非があります。しかしながら、これがまさに権力というもので、憲法の「ウラの争点」化を責めるのには限界があります。

 野党は、「ウラの争点」で戦うことしかできませんでした。オモテの争点である経済に関しては、「成長と再分配」という点で基本的には一致していましたし、そこから先の細かい政策に関しては、程度問題や数値の良し悪しでしか語ることができていませんでした。「ばらまく自民党」に対して「超ばらまく民進党」になるのか、「自由を目指す民進党」になるのか(野党共闘していて構造改革を標榜するのは無理でしょうが)。そこのグランドデザインがあまりにぼやけ過ぎていたことが野党敗北の最大の原因です。オモテを語らずウラだけ語っても、全く魅力的でないのです。

 「ウラの争点」をしばらくしてから「オモテの議題」にするのは、安倍政権の「技術」であり「狡猾さ」です。それは諦めるしかありません。特定秘密保護法案も安保法案も、そうして通されてきました。1年もすれば憲法改正が議論の俎上に載ってくることは、間違いありません。そうであれば憲法改正論議について考え始めなければなりません。もちろん、経済やそこから生じる社会保障のあらゆる問題について考えることは必要です。しかしそれ以上に、憲法改正について真剣に考えなければなりません。憲法については、後半の記事の中で述べたいと思います。

すれちがい選挙の果てに

 今回の選挙は、一言でいうならば「すれ違い選挙」でした。投票を啓発するメディアと政治に関心のない国民がすれ違い、経済で勝ちたい与党と憲法を守りたい野党がすれ違いました。

 すれ違っていては、何も生まれません。様々な選挙分析のなかで三浦瑠麗氏の「参議院選挙総括 誰が負けたのか?」が大きな話題となっていました。その最後の一文は以下のように記されています。

 「絶望することなく、いや、正しく絶望したのちに再び歩み始めるのです。」

 すれ違い選挙の果てに私たちは何を絶望するべきなのでしょうか。絶えるべき望みも見つけられないままにこの選挙が終わってしまった気がしてなりません。

投票に行くべき理由・行かなくて良い理由

投票せずじまいの私

 明後日10日は参議院議員選挙の投票日となっています。選挙権が18歳以上に引き下げられたことで非常に注目度の高い今回の選挙ですが、期日前投票不在者投票も進んでいます。各地で期日前投票投票率が発表されていますが、前回よりは上昇しているようです。

 私も投票しようと思いましたが、不在者投票の手続きが遅れたため投票せずに投票日を迎えてしまいます。そして今週末は所要につき東京へ向かうため、結局投票権を行使せずに選挙を終えてしまうことになります。

 今日は、罪滅ぼしというわけではありませんが、今回の選挙における投票することの意味や無意味について語っていきたいと思います。ここで「無意味」と言ったのは、投票なんかさらさら行くつもりはないよ、という人たちの弁護もしてみようと思ったからです。「投票に行くべきだ」という風潮に抗う天邪鬼な私ですが、まずは世の中の流れに乗って「投票に行くべき理由」を考えてみましょう。

投票に行くべき3つの理由

 今回、若者が投票に行くべき理由は大きく分けて3つあります。

 1つ目は、さんざん言われている通り、「若者のための政治が実現するから」です。「高齢者に3万円給付」のニュースの際にも明らかになった通り、近年の政治は明らかに高齢者優遇傾向にあります。借金を背負い、年金が消え、少子化が進み、、。正直言って、現代の若者世代の未来はお先真っ暗なのです。そんな中、18歳参政権に際して各党が「給付型奨学金」を検討するとしています。政治家というのは、票がなくては何もできない存在なのです。ですから18歳参政権が導入される今回の選挙で、ようやく給付型奨学金の導入が検討されているのです。

 もし今回、給付型奨学金や若者向けの政策に支持が集まれば、今後も若者向けの政策が徐々に徐々に増えていくはずです。若者の投票数が多くなればなるほど、たとえそれが白票だったとしても、若者が政治家を動かすことができるのです。「若者のための政治」を実現するための流れをつくる重要な選挙であると言えます。

 2つ目は、「政権への不満を示すことができるから」です。投票することは現状の政府を白紙委任することだ、とよく言われます。少しでも不満があれば、それを変える権利が私たち国民にはあるのだ、と。

 安倍政権への不満、というわけでは必ずしもないと思います。野党に不満を持っていれば、与党に投票すれば良いのですから。「怒り」「不満」というエネルギーを投票という形で示すのもこの選挙の大きな意義なのです。

 3つ目は、――あまり語られていませんが、――「今回が投票習慣をつけるきっかけだから」です。今回はとりあえず選挙に行こう、選挙に行こう、と有名人も政治家も評論家も口を揃えて言っています。10代・20代に対するメディアの注目度も非常に大きくなっています。しかしながら、次の国政選挙で、メディアは今回と同様の報道を行うでしょうか?選挙管理委員会も10代向けの企画を連発するでしょうか?正直言って、今回限りだと私は思っています。たとえ今回の選挙で若者の投票率が上昇したとしても、次回は間違いなく下落します。全体的に「選挙に行かなくていいや」という空気がはびこるのは目に見えています。世間の選挙熱が冷めることを考えると、今回投票に行かない人たちにとっての「はじめての投票」は永遠にやってこないかもしれません。

 以上が投票に行くべき3つの理由です。

投票に行かなくてよい理由

 冒頭で述べた通り、私は今回の選挙で投票しません。しかし、不在者投票が間に合わないとわかった後も迷いました。やはり、地元に帰省してでも投票すべきなのではないか、と。それでも最後は「投票しない」という選択をしたのです。そこには、2つの大きな理由がありました。

 1点目は、「改憲勢力が3分の2を超える情勢」と報道されたためでした。まず、私は特別与党を支持しているわけではありません。しかし、野党の「護憲」「3分の2阻止」という路線も支持していません。そのような状況になったとしても、特に不満を持つわけではありませんでした。従って、投票することに対するインセンティブはそれほど発生しなかったのです。

 続いて2点目。今回の隠れ争点は憲法改正ですが、それは国民投票で決めることだからです。野党が3分の2阻止を声高に叫んでいますが、あれには少々見当違いなところがあります。というのも、国民が憲法改正に関して判断を下す機会は、選挙ではなく国民投票だからです。ここで仮に与党が3分の2をとっても、「憲法改正」というビッグイシューについてはまた判断する機会があります。「次でいいや」というと相当無責任に聞こえるかもしれませんが、今回判断すべきは安倍政権の政権運営であって憲法の改正ではないなのです。

 まとめると、「改憲勢力3分の2超」という結果に不満がない人、また、来るべき国民投票で意思を示すつもりのある人は今回投票する必要が必ずしもない、ということになります。投票するかどうかまだ迷っている人は、「投票すべき理由」と「投票しなくて良い理由」を見比べて決めてほしいと思います。

私の「民主主義」観

 世間的には「投票率向上」が一種の流行語になっていますが、私は必ずしもその必要はないと思っています。投票したい人は投票すれば良い、投票したくない人は投票しなければよい、というスタンスです。

 このスタンスは、私の「民主主義」観と密接に関わっています。「民主主義」というと、左寄りの人たちを思い浮かべるかもしれませんが、ここでいう民主主義とは、もっと本質的なものであり、得体のしれないものです。言うなれば、「市民の素朴な感覚による政治」ということになるでしょうか。

 大人だって、政策を吟味して投票しているわけではありません。しかし何かしらの思いがあって投票しているわけです。民主主義国の象徴であるようなイギリスでさえ、「Bregret」するような時代です。投票の時には一生懸命考えたにもかかわらず、です。理性や合理性やデータだけで語るより、市民の素朴な感覚で政治を捉えた方がしっくりくることも多いのです。

 何が言いたいかというと、細かな政策など考える必要はないから、素朴に行動すればよい、ということです。その結果として、特に投票する必要がないと感じたなら投票しなくてよい、何か不満があるなら投票すればよい、ということになります。自分の感情に正直でいること。それこそが本来あるべき民主主義、ナチュラルな民主主義なのだと思います。

おわりに

 投票するもしないも、一人一人の自由である、ということを述べてきました。しかし、その「素朴な感情」を持つためには、メディアとつながっていなければなりません。政治のことを少しでも考えなければなりません。

 お年寄りばっかりの社会でどうやって発展するのですか?将来みんなで貧しく暮らすことになるけどそれで良いのですか?テロ対策どうするのですか?自分の国は自分で守るべきだと思いますか?

 投票するにせよしないにせよ、今回の選挙を通じて、若者はすこしでも「政治」や「未来」に思いを馳せる必要があると思います。