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青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

政治のお話①

 みなさん、こんにちは。今日は政治のお話をしたいと思います。

 おそらくみなさんは、「政治」という言葉を聞いた時点で、嫌気がさしていることでしょう。「トランプの話ですか?アベノミクスの話ですか?安保法案の話ですか?そんなのいくら言われても聞きませんよ!」そんな声が今にも聞こえてきそうです。

 

 今日お話ししたいのは、小難しいお話ではありません。どんなに知識がなくても、理解できるお話です。必要なのはたった一つです。正直な心でこの話を聞いてください。

 いや、この話はとんでもなく難しいかもしれませんね。今からするお話には、答えがありませんから。これから皆さんは考えることになります。「平等ってなんだろう」と。「正義ってなんだろう」と。そしてこの話の最後に、あなたは気付くことでしょう。ああ、これが政治なのか、と。

 

 それでは、お話を始めたいと思います。

 

 はじめに、当たり前のことを言わせてください。私たちの世界には現実があり、私たちの心の中には理想があります。当然ですよね。

 1つ目にお話しすることは、「理想と現実」のお話です。気楽に聞いてください。

 古代ギリシアの時代、暇を持て余した人間たちはこんなことを考えました。「人間にとって幸せとは何だろうか?」と。文明の発達の中で協力することを覚えていた人間は、「どのように協力すれば人は幸せになれるだろうか?」と考え始めたのです。

 そうして人類は一つの答えに辿り着きます。「現実に対してみんなそれぞれの解釈をしているが、その解釈の違いを理解することなくして、理想なんて語れやしない」ということです。例えば、目の前に広がる海を見て、「広い」と捉える人と「青い」と捉える人がいるでしょう。「広い」と捉えた人にとっての理想の海はもっと広い海なのかもしれません。「青い」と捉えた人にとっての理想の海はもっと青い海なのかもしれません。今ある現実に対して違う物差しを置いている人たちが話をしたら、共通の「理想」なんて出来上がるわけがないいのです。だから、まずは現実をみんなで同じように考えてみましょうよ、という話になったわけです。

 

 現実をみんなで同じように捉えたいので、道具が必要になります。コメの重さを比べたければ秤が必要です。長さを比べたければ、ものさしが必要です。思考を比べるための道具、それは「言葉」だったのです。

 この映画をみて「面白い」と思う人、「つまらない」と思う人。現実に対する思考の違いも、言葉を変えることで説明できるようになりました。万歳。

 しかし、ここであらたな問題が発生します。「面白い」という言葉にも幅があります。心揺さぶられるような感動を経て「面白い」と思う人もいれば、このシーン下らねえな、と思いながら「面白い」と思う人もいるはずです。だから、「面白い」という言葉の意味を確定させないと、いつまでたっても思考を比べられないことになってしまいます。

 

 こうした流れの中で、単なる個人間のコミュニケーションの道具に過ぎなかった言葉が、大きな集団に共通理解されるもの、あるいはその集団のアイデンティティへと進化していくのです。それはいわゆる言語の統一、という形で、近現代でも登場してきますね。

 

 19世紀末から、20世紀にかけて、二人の人間が「言葉」について分析を行いました。フレーゲは、「言葉の意味は文脈によってのみ定まる」といいました。例えば、「経験」という言葉の意味は〈「過去」の「自分」の「行動」の「記憶」〉と言い換えることもできると思いますが、これがいかなる言葉と一緒に使われるのかによって、どんな「過去」のどんな「自分」のどんな「行動」に対するどんな「記憶」の結果か、ということが違ってきますから、意味が変わってくるのです。ブレンターノは、世の中の現象を「心的現象」と「物的現象」に分けました。心が動くものとそうでないものに分離し、世の中の心理を探したのです。

 この二人は、「思考=言葉」を捉えなおし、「感情」に支配されないように努力した、という点で共通しています。

 

 イギリスでは、この言葉の問題について、「言語」の側面からアプローチしていくようになりました。「言葉」が埋まっている「文」をまず分析しよう、という流れになります。そこから、文法や論理などを駆使して意味を確定させよう、ということです。

 

 そうすると、「言葉」の意味を確定させるためには、その概念自体を整理していかなくてはならなくなります。どういうことかというと、「面白さ」という概念は、Aさんがみた映画の「面白さ」とAさんの頭の中での「面白さ」といった具合に二段階に切断できるのです。

 もうひとつ例を挙げるならば、「私は今朝ランニングをした」というあなたの発言について考えてみましょう。朝起きてコースを走った時点で、あなたはランニングをしたのでしょうか?それとも、「私は今朝ランニングをした」とあなたが発言した時点であなたはランニングをしたのでしょうか?「そんなの前者に決まっているじゃないか!」とお怒りのあなた、冷静になって考えてみてください。あなたがしたのは、本当に「ランニング」ですか?周りの人から見たらただの早歩きだったかもしれませんよ?外にでて足を動かしたあの行為を「ランニング」だとあなたが表現したから、あなたは「ランニング」をしたことになったのではないですか?

 先ほどから述べているように、言葉の意味を確定させるためには、前提や文脈から判断しなければなりません。クワインは、この手法をホーリズムと呼び、たいへん重視しました。

 

 

 では、文脈から見出した意味の正しさはどうやって判断するのでしょうか。「思考実験」で確かめることが大切です。どんな場合でもその定義で大丈夫なのか?ということを様々なケースを思い描いて確かめてみるのです。

フランクジャクソンは、言葉の意味を確定させるために、我々の直感を出発点として、「最善の理論(意味)」を構築することが必要であると説きました。そのために、思考実験や、科学的知見を利用することが大切だと述べました。

しかし、思考実験を利用しすぎることの危険性も叫ばれています。例えば、「面白い」の意味を「心がわくわくすること」と定義したとしましょう。これに対し、「いや、相手を褒める意味でも『面白い』って使うから、心がわくわくするとは限らないんじゃないか?」と異議を唱える人がいたとします。これは思考実験として成立しています。しかし、「全員が感情を持たない社会だったら?」という思考実験は、たしかに「心がわくわくすること」という定義を崩せてはいるけれど、あまりにも荒唐無稽で、考える価値があるのかといわれれば答えはノーです。

 

 いずれにしても、言葉の意味を確定させることの「難しさ」を実感していただけるかと思います。逆に、言葉の意味を確定させることができれば、みんなが現実を同じように捉えられますから、理想を語り合うことができ、良い社会になっていくはずなのです。