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青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

2016年から2017年へ――転換期としての2010年代――

 

 カテゴライズする便利さとカテゴライズする危うさの淵に我々は立っているのだということを、今、我々は噛みしめなければならない。ロゴス(論理)とパトス(感情)、あるいはtruthとpost-truth、あるいはエリートと民衆というような対立軸を作って、語る、正確には語りたがる。わかりやすいから、「分ける」のだ。わけて、「あれかこれか」で判断するのだ。

 この西洋的な価値観こそ、今最も揺さぶられているものだと僕は今考えている。現代にいたるまでの学問の底流には、「自由」のユニバーサリズムがあって、「正義」のヒューマニズムがあった。だけれども、それが2016年から2017年にかけて、根本から揺らいでいるのだ。

 

 「絶対的な正義などこの世に存在しないんだよ。」

 これはドラマ「相棒」で語られた、岸部一徳演じる小野田官房長のセリフだ。いまから綴ることはこの言葉に象徴される。

 近代の学問は、絶対的な普遍性や唯一の正義を追い求めてきた。300年前にニュートンがみつけた正しさが、いまだにauのCMでオマージュされる時代である。正しさへの畏敬の念は異常なほどだ。

 しかし、これから台頭してくるのはそれとは真逆の流れである。「対立するもののちょうど間にある『何か』こそが答えである」ということだ。そこに特定の価値観は存在しない。現在の学問の場でそんなことをいうと、「答えの放棄」だ、「思考の停止」だと罵倒されるか、あるいは嘲笑される。僕が抱く違和感はそこにある。

 例えば、さっきまで寝ようか寝まいか午前3時過ぎまで迷っていた。現在の価値観では、学問では、その結果は「寝た」か「寝なかった」か、どちらかの言葉で記述されるだけである。もう少し頑張って「寝ちゃった」と表現したところで、そこに「迷い」があったかどうかまでは汲み取れない。さらに、仮に「寝た」ところで、どこからが「寝た」ことになるのか、目をつむった瞬間なのか、あるいは、意識を失った瞬間なのか、あまりに曖昧である。迷いや揺らぎのようなものを言葉が掬い取ってくれない。そこに絶対的な普遍性は存在しない。

 世の中には、「お餅食べたい!」と11月あたりから熱望している食いしん坊もいれば、「別に餅になんて好きじゃねーけど、雑煮の中に入ってたから食ったわ」と不機嫌に語る天邪鬼もいる。どちらも「餅を食べた人」とカテゴライズされて一緒くたに扱われるのだ。その違和感のようなものがここ数年あたりからあらゆる世界に存在していて、それが次の世代へと社会を変革する原動力になるんじゃないだろうか、と僕は考えている。

 

 同じ流れで2016年を振り返る。2016年は「正しさ」が問われた年だったのではないか。「自由」とか「グローバリズム」とか、あるいは人と「協力」することとか。そういう「正しい」とされてきたことに疑問符が付いた一年だったんじゃないだろうか。

 不倫や薬物だって、そうだ。あれは二つの正しさが問われた問題だ。第一に、ベッキーのような清純派の人間が、あるいは清原のような朴訥な人間が「悪い」ことをする。でも不倫が悪いのはなぜだ?賭博や薬物が悪とされるのはそもそもなぜなんだ?人に迷惑をかける不倫が罪ではなく、自分が堕ちてゆくだけの薬物・賭博が禁止されているのはどうして?そんなことを考えさせられる。

 第二に、それを楽しむ背徳感、報じるメディアの正しさも問われた。ベッキーのLINE流出したよ、ASKAのタクシー映像流出したよ、それは本当に「正」や「善」なのか?「人の不幸は蜜の味」すなわち「快」なだけではないのか?正しい事実を伝えることは常に「正しい」のか?表現の自由を叫びながら、そこに疑問符が付くような報道をしたマスメディアについても、より一層厳しい目が向けられている。

 

 SMAPの解散に関して「正しさ」は何なんだろうか?感情の面から考えても、「見せかけの仲良しスマップなんか見たくない」という意見もあれば、シンプル に「さみしいから5人そろった姿を見ていたい」という声もあるだろう。あるいは、論理的な視点から、「経済的に損だから続けるべきだ」とも言える。

 そしてもっと真剣に考えなくちゃいけないのは、ファン以外の多くの人は、僕をふくめて、「あら、もったいない(でも、あたしには知ったこっちゃない)」と松居一代ぐらいのテンションで騒動を見ているに過ぎない、ということだ。続けるべき、やめるべき、ではなくて、その間に世の中の多数派は存在している。必死でもないけど、無関心でもない、そんなサイレントマジョリティをどう表現するかがこれからの課題だ。

 

 サイレントマジョリティというワードが出てきたので、欅坂のサイレントマジョリティについても触れておくことにする。まず欅坂46全体が醸し出す「アイドルらしくなさ」はこの文章のテーマにも沿う。アイドルらしくないアイドルとしての揺らぎがこの時代に受け入れられているのだろうと思う。そして、なにより楽曲「サイレントマジョリティ」の構図に触れておかねばならない。秋元康という天才に支配された彼女らが「大人たちに支配されるな」と謳っているのだ。この矛盾はすがすがしい。彼女らの「支配されているけれどもすべて支配されているわけではない」、あるいは作詞家秋元康の「すべては支配できないし、支配したくない」という思いがにじみ出ているように感じる。ここにも揺らぎがある。

 

 2016年のヒットを振り返る。『前前前世』は、語呂の勝利なのか?それとも、タイアップの勝利なのか?『シンゴジラ』は特撮なのか?社会派エンターテイメントなのか?PPAPだって、結局よくわからないけどあれだけヒットしたわけだし、パーフェクトヒューマンだって、星野源だって、ヒットしたものすべてがふわふわしていた。カテゴライズしにくいモノばかりだ。無理やりカテゴライズしても良いのだろうけれど、もうよいのではないだろうか?

 

 政治に目を向ければ、トランプもEU離脱も「右か左か」の2択を強いられている人たちの反逆のような気がしている。少なくともそういう分析が多数を占めている。小池百合子も、フィリピンのドゥテルテも、その流れの中で生まれてきたリーダーだ。「選びたくない」人たちから選ばれたリーダーが今世界の中心にいる。「選択強制社会」から地球が脱走しようとしているのだ。

 人々は、選ぶことを能動的にやめる。能動的に、というのが大事だ。選ぶことをやめることは、考えを停止することだ。余計な価値観やイデオロギーから解放され、最も合理的な選択肢を選ぶ。言ってみれば、能動的な「即レス」だ。だから、心地よくわかりやすい言葉を並べて、合理的なメニューを提示できる人間が勝つ。トランプや橋下徹が強いのはそこだ。だから、小難しい理論を並べても無駄だ。橋下徹ツイッターで自称インテリと自称人権派を徹底的にたたいているのも頷ける。

 

 即レス社会においては、SNSが大流行する。ツイッターでリプを送りあい、LINEでスタンプを送りあう。ことの果てには、現実を言葉にするのが面倒くさいから、すなわち、目の前の現実をカテゴライズするのが面倒くさいから、InstagramやSNOWが流行るわけだ。SNOWに至っては、現実をゆがめる楽しさまで僕たちに教えてくれている。

 別にこうしたメディアを批判しているわけじゃない。SNOWは人間を相対化させるものでしょ、すごいアプリだ。犬になれる、顔がゆがむ、顔が交換される。ヒューマニズム=人間中心主義の逆だ。人間に対するチャレンジだ。

 VRだってそう、人間の感覚器官が逆手に取られているのだから。夏には、ポケモンGOも大流行した。人間世界に存在しないものを人間が熱狂的に追い求めるわけだ。ツイッターで毎回大騒ぎするコミケも同じく。二次元と三次元の垣根がどんどんどんどんなくなっていく社会だ。

 おそ松くんは、同性愛の問題から出発しているだろうし、ユーリオンアイスも羽生やプルシェンコの活躍なくしては生まれなかっただろう。現実世界を下地として、人間は二次元の世界に陶酔する。

 スマホゲームにおける課金も同じ。2次元と3次元の境目は消えつつある。絶対的に正しいと信じられてきた3次元の社会すら、感覚的にはもはや正しいのかどうかわからなくなってきているのではないだろうか。

 

 人間に対する正しさの挑戦ということを考えたとき、真っ先に思いつくのは、――『進撃の巨人』ではなくて――人工知能AIだ。これが人間にとって一番の脅威になりうる。近所のスーパーのレジが自動化されたり、自動運転の車が爆発的に増えたりしている。囲碁界の世界トッププロがAI『アルファ碁』に敗れるなんていうニュースもあった。

 きっと核や原発と同じように、AIも現状維持の暴力と、革新の乱用の中で、期待と不安が語られていくのだと思う。産業革命のときにラッダイト運動が起こったように、人間は機会に対して牙をむくかもしれない。そのときに我々がよりどころにする「正しさ」とはなんだろうか?

 

 例えば、生まれた瞬間に、この地球上でもっともふさわしい結婚相手がDNAをもとに導き出される。100年後にはAIがそんなことをやってのけているかもしれない。職業も進路も部活動も何もかも「この人はこう生きるべきだ」ということが、生まれてすぐ、データとして導き出される。そんな世界ってどうなんだろうか?それが嫌であるなら、その事態を回避するために、我々が学ばなくちゃいけない倫理って何なんだろうか?

 

 今、我々は「正しさ」とは何か?を考えさせられる時期に来ている。そして同時に、高速の資本主義社会の中で、能動的に考えることをやめている。答えがあまりに曖昧だからだ。非合理的な部分がこの世の中にはたくさんあるからこそ、現在では合理性を求める潮流にあるのだろうし、基本的に僕もその流れに与する人間だと思っている。

 しかし、そう遠くない将来、「合理性の限界」にぶつかりうることを我々は想定しなくてはいけない。いつか、また価値観が必要となる時代がやってくる。それは50年後なのか、100年後なのか、分からないけれど。

 未来の人間が、歴史を遡り「価値観」のあった時代を探したとき、2010年代・2020年代にぶつかるだろう。2010年代を振り返り、彼らは何を思うのか。そこに2010年代の意義があるのではないだろうか。