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青葉の放言

大学生の戯言を綴っています。身の回りの出来事から政治・社会問題に至るまで雑多なことを書き連ねております。

憲法記念日に想うこと

70歳となった憲法

 憲法が70歳を迎えた―――そんな調子の報道が飛び交っています。「悲願」の改正か、「改悪」の阻止か。首相もついに2020年の憲法改正に言及しました。いずれにせよ、激しいトーンで論戦が繰り広げられています。しかし、「憲法」が政争の具となっている国は海外に例を見ません。それなのに、なぜ、日本の憲法は政争の具として利用されてきたのでしょうか。

 

 今日は5月3日、1947年に日本国憲法が施行されてからちょうど70年です。1947年、GHQの占領下にあった日本は、それまで持っていた「大日本帝国憲法」を捨て、民主的な現憲法を手に入れました。それからちょうど70年となる今日、各政党及び各マスメディアが一斉に憲法に対する見解を述べました。各メディアを探れば記事が見つかると思いますので、ぜひ読んでいただきたいところです。

 

 以降に綴るのは、「憲法とはなんであるか」ということです。これについては昨年の参議院選の総括記事の中でも触れましたが、今回はもう少し立ち入って考えてみたいと思います。

憲法とは何か? 

 憲法とは何か?という問いは、唯一無二の答えを選びません。憲法そのものをどう捉えるか、という点については、国民一人一人の意見に差が合って構わないと思っています。

 しかしながら、見方を変えて、「憲法は何のために存在しているか;憲法がない世界ではどういう不都合が生じるのか」ということを考えたとき、その答えは幾分か絞られるはずです。

 

 「国家の暴走を止めるために」存在しているのだ、という立場と「国のありていを他国に示すために」存在しているのだ、という立場に大きく分けられるのではないでしょうか。もう少し踏み込んで言うと、前者は憲法の規定のうち、「人権」に関わる規定を重視し、後者は「統治機構(司法・立法・行政の三権、そして安全保障)」に関わる規定を重視します。これは改憲・護憲の立場を問わず、各界の論客も身の回りの友人も総じて半々ぐらいに分かれるのではないかというふうに思います。それぞれの立場から考えてみましょう。

 

 「国家の暴走を止める」ということに主眼をおくならば、それは歴史的文脈から考えるべきでしょう。そこには、1789年の人権宣言以来、「市民革命」が背負ってきた絶対王政へのアンチテーゼがあります。国家を縄手人とし、われわれ国民が生まれながらにして持っている自由を守ろうという強い意志がみてとれます。

 

 「国のありていを他国に示す」ということは、明治初頭に日本の先人たちが命を懸けたことです。「近代国家」として欧米諸国から認めてもらうため、伊藤博文井上毅といった人物が憲法の起草にその生涯をかけました。他国を模倣した部分があるにせよ、自らの手で統治機構を定めるのだということに、近代国家の礎は存在しているのです。

 

 こうして見てもわかるように、一方の立場が正しく、片一方の立場が間違っているということはありません。私は、どちらかと言えば前者の立場に与しますが、統治機構の重要性もよく理解できます。憲法には「人権」と「統治機構」の記述があり、どちらに重きを置くかで保守・革新、護憲・改憲問わず憲法への見方が変わってくるだろうということを指摘しておきたいと思います。

 

 そのうえで、憲法には何を書き込むべきか、ということを考えてみましょう。この際、憲法は、普通の法律の上位に存在する「法」であるということを自覚せねばならないでしょう。法律より上の特別な存在であるからこそ、ときに政争の具になってきたのです。

 では、「憲法が特別な存在である」とはどういうことなのでしょうか。それは、「揺るがない」という点です。前の段落の内容と対応させれば、それぞれ、「権力者によって揺らぐことのない人権保障が達成されるから」、「近代国家として揺るがない体制であると誇示できるから」ということです。そうであるならば、「憲法改正」は体制を「揺るがす」ことになるのではないか。その懸念も理解できますが、「憲法改正」=「揺らぎ」だとは考えていません。大事なものを揺らぎのないモノにするために、細部を揺るがすことはありだろう、と思うからです。

 わかりにくいと思うので、例を挙げて説明します。後述しますが、私は憲法9条2項を削除すべきだという立場です。その立場をとる理由は、「具体的すぎるから」です。9条1項はパリ不戦条約に由来する「平和主義」の理念そのものです。ここが揺らぐようなことがあってはまずいでしょう。しかし、2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とするのは、〈「平和主義」という理念達成のために〉という視点で考えた時、選択肢が狭すぎないでしょうか。戦力の不保持という行き過ぎた具体性が、揺らがせてはならないはずの「平和主義」を逆に阻害することになるのではないでしょうか。それなりの裁量は必要なのです。

 もちろん、こういう論には課題もあります。本日付の毎日新聞が、現憲法において法律に委ねる点が多いことを懸念していました。とくに、地方自治について法律に委ねているのは問題ではないか、という点です。その通りでしょう。「地方自治制度」が憲法で規定されているに過ぎず、地方が国に対してどのような関係であるかについては、一切触れられていません。(「地方自治の本旨」というナゾの語があるに過ぎません。)揺らがないようにしなくてはいけないのは、「地方自治制度の存在」ではなく、「地方は国の言いなりにならない」という点だと考えるからです。

 

 以上の点から、「国民が合意できるもの」のみを憲法として残すべきだろう、と私は考えています。「揺るがない」=「すべての国民が合意できる」もののみを新たな憲法とすべきだと私は考えています。戦後「押し付け」論のロジックではなく、「憲法」そのものについてとらえる視点から、改憲論議を考えてみてはいかがでしょうか。